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言い訳は飽きた

 ここ最近、とても気になる……気に障る? フレーズというか言い回しというか……がある。多くの人が様々な場所で見聞きすることがあるものだと思うが、「自分は~だから……」である。

 例えば、「自分は字が汚いから(万年筆には手を出しづらい)」「自分には似合わないから(ああいった服は着れない)」「自分には続かないと思うから(日記をつけようとは思わない)」等々……。このフレーズは世界の至るところに潜んでいる。うんざりする。
 しかも、これらは直接人の心から出るよりも、本などのメディアからの方が供給量が圧倒的に多い(私の体感では)ことがさらに厄介度を加速させているのである。
 むしろメディア側の「そういった考えの人が多いのではないか?という勝手な思い込み、あるいは誇大広告的なもの、商売として、根拠なくそう書いているのではないかとすら思う。
 だが世界は広い。少なくとも私の体感では、私の持つ感覚よりも 上記のような考え方をする人が多いと感じるので、この「自分は~だから」論を使う人は割といる、という前提で考えることにする。

 自分本位の話にはなるが、私は自分の興味のあることに対して「自分は~だから」と考えたことはおそらく一度もない。というか、最近そのフレーズが気になり始めるまで その可能性を考えたことすらなかったのだと気付いた。やりたいからやる。そこに自分の都合なぞ連れ込む余地はない。自身の事情なぞ考える思考の隙すらない。やりたいからやる、そこで始まって完結しているのだ。
 だがしかして不思議に思った。当然ながら、私とて何でもできるわけではない。むしろ今は できないことの方が圧倒的に多い。なのに自分の思考をこう捉えているのはどういうことなのか。

 考えてみれば単純なことだった。やりたいけれど「お金が足りない」「リスクが高すぎる」「怖い」等、はっきりと理由をつけて 現時点ではすっぱりと諦めているのだ。「自分には縁のないこと」と割り切っている。割り切る必要のないレベルであれば、考える隙もなく既にやっている。つまりはそういうことである。
 もしかするとこれも、他の人からすると「自分は~だから」論と同じだと捉えられるかもしれない。単なる言い訳じみた、自分は人とは違うアピールかもしれない……。そう思われたならそれでいいと思う。私は恥ずかしい持論を振りかざす人として在るしかない。

 以上の持論を踏まえて考えると、つまるところ「自分は~だから」は完全に言い訳そのものである。言うまでもない気もするが……。
 そうだよ、人に勧められたものの特に興味の湧かない事柄に対して、角の立たない言い訳として使ってるんだよ、と言われそうな気がする。つまりは方便であると。便利な言い回し。

 そこに異を唱えたいのである。それに対して実際に興味があるにしろないにしろ、一体どうして言い訳をする必要があるのか。はっきりと自分の意見を述べては、勧めてくれた人の気持を無下にするから? でも私は、その決まり文句を口にする方が よほど失礼だと思う。

 考えるに、多くの人は思考停止している。深く考えるまでもなく、「自分は~だから」を上手い具合に活用して現実から逃避している。理由に関しては、それを使いこなせなかったら情けないから、恥ずかしいから、そういった負の感情を初めから放棄して、そこに辿り着く前に 自分を卑下して逃げるのだ。

 それはきっと楽だろう。とりあえずなんでも、考える前に卑下して逃げていれば それ以上負の感情を抱えずに済む。だがしかして、そうして逃げることこそが「情けなさ」の正体ではないかと私は思うのだ。

 どんなことであれ、きちんと正面から向き合って、たとえ上手くできなくとも 自分に打ち勝とうとする姿勢はとても美しいと感じる。
 しかし 全てのことに立ち向かっていては身がもたない。だから「きちんと自分と向き合って、正直に逃げれば」いいのだ。
 下手な言い訳など使わずとも、「気になるけど、もしできなかったらと思うと怖くて、自分を許せなくなりそうだからやめとく」「勧めてくれたのは嬉しいけど、他にやることがあって、そっちで手一杯だから 今は考えられそうにないかな」

 その方がよほど誠実だ。潔く、人に、物事に、自分に正面から向き合える美しさを感じる。何でも正直に言えばいいというものでは決してないが、まず第一に誠実さを忘れてはならないと思う。自分に対しても、他のすべてに対しても。

 自分を卑下することが美徳とされる時代は終わった。それは世渡り術などでは決してない。ただの不誠実だ。

 向き合え、自分と。世界と。目を逸らすな。思考を止めるな。
 痛みを愛して、自分を愛して 生きろ!

なにか感じていただけましたら、よろしければ。よろしくお願いいたします。