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普通の夏休み


学校に通っているころは、8月31日に向かって、まとめて机に向かわなければいけないような夏休みの送り方をしていた。


前に感傷的な子供だった話を書いたけれど、7月終わったくらいからもう夏の終わりを感じて寂しくなっているような子供だったくせに、宿題をやるのはいつも遅かった。

日記はきまってまとめて。

書くこと自体は好きだったけれど、元来真面目さがないのだろう。

残り数日となって適当にバッサバッサとページをめくって書いていた。

「普通の夏休み」

という言葉をそのときよく使っていた記憶がある。

別に学校に報告するような特別なことはありませんでした、もっというと夏休みに経験したことなんて誰かにお伝えしたくない、という気持ちが根底にあった気がする。今になって思えば、だけれど。

夏の思い出はあやふやで儚いのだ。自分で大事にとっておきたかった。


それとはべつで、「普通の夏休み」という言葉の響きが好きだった。
ということもあった気がする。

これも最近気付いたのだけれど、「普通」という言葉が好きだ。

普通の、ってなに?

普通なんてないと知っているし、逆になんだって普通になりうるんだってこともわかっている。

一般的なことを指す言葉のくせに、極めて個人的な感覚だということも。

だから最近、私の中でこのことばが楽しくて不思議な価値を持ってしまい、普通に思いを巡らせている。

とはいえ、今年の夏は「普通の夏」ではない。

あまりにも普通じゃない夏を送っていながら、そこに普通を探しているような気もする。


見てみたいと楽しみにしていた映画。

タイトルが素敵すぎる。

最も普通の恋愛、っていうんだからきっと誰でも知ってるはずだ。

でも誰も経験していない気がする。

ときどき、普通って本当は、誰とも共有できないような気もしてくる・・・

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