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妄想日記「あの子のリュック」

賀谷なつみ 24歳 会社員

大学時代の出来事を思い浮かべると、あの子のリュックのことを思い出す。彼女は目立つ生徒ではなかったし、性格も特に変わっていたわけじゃない。ただ、彼女のリュックが問題だった。可愛らしいトートバックを肩から掛けて登校する生徒の中で、彼女はひとり、登山用の大きなリュックを背負って登校してくるのだ。その姿は、なかなかのインパクトで、彼女のことを話すとき「あのリュックの子」と言えばだいたいの人が分かった。

そのリュックの中には、どうやら授業に必要なもの以外にありとあらゆるものが詰め込まれているようだった。例えば、トイレに行って手を拭くものがないことに気付いた時、彼女はさっとリュックからハンカチを取り出し「3つあるから気にしないで」と言い、終電を逃した飲み会、みんなで同級生の家に泊まることになった時は、全員分の歯ブラシを取り出し「家にまだまだたくさんあるからぜひ」とみんなに配っていた。他にも、運動部の子にギブスを、喫煙者であることを隠している女の子に消臭スプレーを、終いには、花束をもらったものの花瓶を持っていなかった子に花瓶を、そのリュックから取り出したと風の噂で聞いた。とにかく、彼女のリュックの中身は、大学でちょっとした都市伝説になっていた。

そんなある日、私は野外学習で彼女と二人一組のチームを組むことになった。授業の内容は、大学の裏にある山に入り、植物の観察をするというとてものどかなものだった。その日も、彼女は例のリュックを背負っていて、誰よりも山の中に溶け込んでいたのを覚えている。「なんか、校舎で見るより山の方がええね」と私が声を掛けると、「もう、わたしずっと山ん中の授業でええわ」と彼女は笑った。そうして、90分の授業も終わりに差し掛かった時、踏み込んだ地面が、想像以上に柔らかく私の身体がぐらりと傾いた。もう片方の足で踏ん張ろうと前に出すと、今度は枯れた蔦に足を取られ盛大に坂を転がり落ちてしまったのだ。しばらくびっくりして固まった後、彼女の大きな声が近づいてくるのと比例して右膝に鋭い痛みがやってくる。恐る恐る自分の膝を見ると、赤黒い血が流れだし、くるぶし丈の白い靴下を汚している。痛いよりも、熱い、と思った。すると、彼女がやってきて「大丈夫?!」と、私を覗き込んで叫んだ。そして、リュックから四角い大きめの絆創膏を取り出し「これ、貼ってもええ?」と言った。「ごめんね。ありがとう」私は、彼女が手際よく傷口を消毒し、絆創膏を貼る様子を感心しながら見ていた。「できた」と満足そうに彼女が言った。その時だった。彼女の顔が、急激に青ざめていく。

「血、止まらん」

膝を見下ろすと、確かに貼ってもらった絆創膏の淵から、血がプクリと溢れてきていた。「まあ、このくらい大丈夫」と私は楽観的に言った。しかし、彼女は違っていた。リュックを再び漁り、何枚も絆創膏を取り出し、私の膝に貼り始めたのだ。それは、異様なまでな執着だった。私は、少し怖くなって「ええよ、もうええって」と彼女の肩を強めに押した。すると、ようやく彼女は止まって私と目を合わせた。その目には、なぜか「恐怖」が浮かび上がっている。数秒見つめ合った後、彼女は体の力が抜けていくように座り込んで「…昔、犬を飼ってたんよ」と話し始めた。「泳ぐんが好きな犬で、河原に降りて川の浅瀬でよく遊ばせとったんだけど…」「川って急に深くなるやん。それに気付かんくて…リード、わたし握ってたのに…離してしまって…あっという間に…………流されて見えなくなった。あの時、私がなんもなかったから、なんもできなかった。だから…」叱られた子供みたいにうなだれて彼女は言った。「このリュックには、全部入れてたつもりだったのに…」そういって、静かに涙を流した彼女を見て、私はそのリュックに詰め込まれていたものが何なのかを知った。それは、彼女の「不安」だったのだ。

私は、彼女の肩にそっと手を置きやさしく言った。「そろそろ戻らんと。肩、貸してくれん?」「うん」彼女は、服の袖で涙をぬぐい、私に手を差し出す。私は、その手をしっかりと握り立ち上がった。痛みは、ある。でも、彼女の肩があれば歩けそうだ。私は、彼女の肩に左腕を乗せて体重を預けて言った。「ああ、これが一番助かるわあ」「え?」彼女の声が左耳のすぐそばで聞こえる。「血が止まることより、あんたの肩のおかげで歩けとる方がありがたいわあ」すると、また小刻みに彼女の肩が震えるのが分かった。私は、彼女の方を見なかった。山のふもとにたどり着く頃、授業の終わるチャイムが聞こえた。

その次の日から、彼女のリュックは登山用からカジュアルなサイズのリュックになった。相変わらず、そこにはいろいろなものが入っているようだったけれど。彼女の「不安」は小さくなったのだろう。あの出来事は、今でも彼女と私だけの秘密だ。そして、私の大学時代の数少ない有益な思い出なのだ。