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ちいさな小説「地蔵の耳」

地蔵ゆかは未だに、あの猫は自分が殺したのだと思っている。小学二年の夏、野良猫にしては珍しく毛の長い白い子猫を見つけた時、「これは自分だけの秘密にしよう」と決めたはずだった。子猫に「鈴」と名前を付け、毎日放課後に餌を運んで可愛がった。しかし、そんな日々にも慣れ、「一人だけなら…」と仲の良かった雪ちゃんにこの秘密を明かしたのである。すると、数日後に子猫はいなくなった。雪ちゃんが、子猫のことを両親に話し、それを両親が学校に報告し、そうしてあの子猫は保健所に連れて行かれたことを知ったのは、彼女が小学4年生になった時だった。それ以来、彼女は秘密を話さない。他人から聞いた秘密も、誰にも話さない。その口の堅さから、彼女のことを「地蔵の耳」と同級生たちは呼んでいる。

彼女の元には、ありとあらゆる秘密が集まってくる。例えば、クラスの真面目な女の子はパパ活をしているし、みんなの憧れの男の子は3股をしている。そして、驚くことにそのほとんどが、人伝いに語られたものではなく、本人たちの口によって彼女に語られたものである。よって、彼女は人間が秘密を吐き出すとき、それは快楽に近いものだと知っている。そして、彼らが求めているのは「彼女」ではなく「地蔵の耳」なのだという事も。

そんなある日、ちょっとした事件が起こった。彼女を含む6人の学生が住むマンションに強盗が入ったのだ。彼女は、被害者になり、何が盗まれたのか、不審な人物は見ていないか、警察に根掘り葉掘り聞かれた。彼女の部屋から消えたものは「日記・貯金箱・洗濯前の下着」。それだけの被害でよかった、と故郷の両親は胸を撫で下ろしたが、彼女は気が気じゃなかった。なにしろ、その消えた日記には彼女の元に集まったほとんどの秘密が書かれていたからである。

そして、彼女の恐れていたことは現実となった。事件から数日後、学校中に秘密がばらまかれたのである。それは、まさしくパンドラの箱だった。中でも、とある女子生徒が妻帯者の教授と関係を持っているという内容は、学校内で問題となり教授は大学を去ることになった。しかし同時に、この出来事から同じ学校に通う男子生徒が疑われ、犯人は無事逮捕された。彼は、取り調べで何度もこう言った。

「盗んだのは僕ですが、秘密を拡散したのは僕じゃありません」

警察からすれば、秘密のことよりも強盗を認めたことの方が重要だった。だから、彼の言葉は取調室から出ることはなかった。

対する彼女は、予想外の出来事の中にいた。彼女は、日記に秘密を書きこんでいたことを周りから責め立てられると予想していたのだが、そうはならなかった。それは、皆「秘密を話していたのが彼女だけではなかった」ということだ。そして皆、地蔵の耳である彼女のことを疑うことはなかった。誰もが、それぞれ元から不信感を持っていた相手を疑い、責め立て、彼らはそれぞれ関係を断った。

彼女の日常が戻ってきた。週に3回の居酒屋のバイトのあとで、彼女はちょっと良いビールを買った。そうして、空を見上げると不気味なほどやせ細った月が浮かんでいる。彼女は、喉仏を鳴らして美味しそうにビールを呑むとこうつぶやいた。

「なあんだ。せっかくばらまいたのに。つまらないな。」

飲み干した缶ビールを、彼女はくしゃりと潰して公園のゴミ箱に投げ入れた。明日の朝、唯一の証言者であるその缶ビールはごみ処理所に運ばれるだろう。そうして、地蔵の耳である彼女の最大の秘密を、もう誰も信じない。