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「静かな退職」問題から考える「子なし」と「脱労働」


1.静かな退職

静かな退職という言葉を知った。「仕事への熱意を持たず、必要最低限の業務のみをこなす働き方のこと」らしい。色々とメリット・デメリットなどが記事で言及されているが、個人的には「普通に必要なことをして帰宅することの何が悪いのか」と感じるのみである。けれども、少なくとも日本においては、会社労働をしている人の多くが「静かな退職」に肯定的な感情を持っていないだろうと思われる。

以前の転職面接で、自己実現欲求の優先順位は高いながらも、他人や組織に影響を与えたり、評価されたりすることに対する熱意はないのかという趣旨の質問をされたと書いたが、まさにこういう価値観を持っている人からしたら、静かな退職という選択はありえないものなのだろう。物事に取り組む際には何か特別な熱意がなければならない、すべてのことに物語がなければならないといった具合だろうか。労働などの団体行動じゃないものを人生の中心に添えること、それを優先順位の下位に位置づけることががあたかも悪いことであるかのように語られる。

この議論にはいくつかの特徴があると思っている。

  • 労働だけが自分を成長させる手段だと認識されていること

  • 決められたことをやるのが「悪い働き方」だと解釈されていること

  • 単純労働を無理矢理複雑労働にしていること

記事内では、静かな退職の特徴として以下が列挙されている。

必要最低限の業務しかしなくなる
時間外など必要以上の仕事は断る
いつも定時退社をする
ミーティングや会議での発言がない
他のメンバーとのコミュニケーションがない
業務量に対して不満を口にしている

静かな退職とは?特徴やデメリット、対処方法をわかりやすく紹介 | Smart相談室 (smart-sou.co.jp)

業務量に対して不満を口にしている、コミュニケーションがないというのは、程度問題かと思うものの、それ以外の項目については、いったい何が悪いのかと思う。労働契約を遵守しているだけではないだろうかと。そもそも、必要以上の仕事をしたり、全体のことを考えるのは、経営者や管理職の仕事ではないかと思う。単純に、これまでの過剰な自己犠牲型ライフスタイルを、現在の世代が見直してくれているのではないだろうか。

これまでは、なんだかんだで相対的に強い人間や世間の潮流に逆らえずに我慢していた社会から、今の世代の若者が、行動することで社会を変えてくれようとしているということなんじゃないかと思うのだが、メディアや発言力のある人からすれば、それは社会を悪い方向に変える行動のようである。

普通に働いて普通に帰宅して、普通にプライベートの時間を楽しむ。与えられた役割を放棄しているわけではない。ただ、労働と自己実現を切り離しているだけ。これの何が悪いのだろうか。無害の極みであり、こういう人が職場の多数派だったら、職場の人間関係も複雑で嫌なものにならないし、平和な毎日を過ごすことができると思う。

…と考える私は、低感情社会に浸かりきっているのだろうなと、先日考えさせられたところだ。静かな退職も、この低感情社会と似ている。静かな退職をするような人は、本当に無害である。仮にこれまでの仕事がこれまで通りできなかったり、これまでの社会がこれまで通りいかなかったとしても、無害であることのメリットは極めて大きいからである。むしろ、これまでどおりの働き方や社会の回し方をすることが正しいと、なぜ無条件に信じることができるのだろうかと思う。


2.静かな退職と低感情社会

特に最近、妻とよく話す話題がある。昨夜も話した。今、社会の変化を考える中で、歴史を振り返ったり、時系列的関連性を強調するものが増えているが、そもそも、過去、現在、将来に一貫性がある必要があるのかどうか、これまで正しかった常識や標準が、本当に現在もその地位を維持しているのか。

具体的に言えば、昭和型の働き方と結婚、家庭環境を構築し、子供を生み育てることが標準なのかと考えた時、本当にその普遍性・マジョリティ性が数字で示されるのだろうか。本当はすでに自然体・標準・マジョリティではなくなってきているのではないか…こんなふうに考えることも大切だよねと話している。

常識は変わるけれど、常識がずっと続くと思っている人は多いし、自分たちも年令を重ねるに連れて自分たちの感覚が中心であるという錯覚に陥る(これが老化だと思っている)から、そこは本当に気をつけたいよねと話している。


低感情社会という言葉を知って、本当に色々と考えさせられている。低感情社会が良いもの・悪いものという議論になると、必ずどこかの時代や常識を基準に判定が行われるけれど、実際には「低感情社会のようなものが徐々に浸透している」「それが社会情勢の変化で新しく見られるようになっている」という事実があるだけで、それが良いか悪いか、支配的かそうじゃないかっていうのは、どうでもいいことなのかもしれない。それを「〇〇にすべきだ」という議論も、不要なのかもしれない。

ただ、実際に起っている変化が、直面する世界なんじゃないかと考えることが、柔軟に生きる手段の一つではないかと思うのだ。ルールを変えることなどできないし、他人や社会に求めるのは自滅や消耗を招く。そうであれば、状態を察知してそれを吸収する(服従・追従するという意味ではない)ことを重ねるしかないのではないかと思うのだ。


3.「静かな人生」としての少子化

「静かな退職」的な考え方は、少子化とも関連があると考えている。

合計特殊出生率には地域差がある。以下を見ると、都市部と地方部だけでなく。西日本の出生率が高いことがわかる。西日本出身の妻は、地元は古来の「男らしさ」「女らしさ」を重視するコミュニティが多く、子供が減らずに昭和型の家族が維持される傾向があるのではないかという。実際そうだと思う。

妻が言うには、田舎ではまだまだ「強い男が弱い女を守ってあげなければ!」という意識が強いようだ。それは経済力ではなく、腕力的な逞しさや強さを意味することも多いようだ。そして、そういう人が女性から好かれる傾向も残っているとのことだ。だから男性は、己の強さを社会や女性にアピールして、自分を気に入ってくれる人を追い求める。東京の人はそれを本当にしないと話していた。何が何でも他人を手に入れたいとそもそも思っていないし、そもそも「女性=弱い=守るべき」という考え方が極めて弱いのだろうと分析していた。実際そうだと思う。

地域ごとにそれがどうなのかはわからないが、腕力がその人物の社会的強さであるという認識はないし、力があっても生活ができなきゃ話にならないとなれば、必要なのは金だ。そして女性が弱いのは生物学的(体力的)ハンデであり、戦隊ヒーローが女性を守るような強弱関係は、現代社会では見られない。昔ながらの「強さ」が男性に要求されていないように思う。スポーツができることが異性から好かれることの必要条件にならなくなってきていることを感じる。

それよりも、清潔かどうかとか、嫌な言い方だが「服が生乾きの臭いを帯びていないか」とか、暴力や暴言を吐かないかどうか、面倒なことを要求してこないかとか、そういう「害がないこと」が判断基準になっている場面を見かける。「3高」から「3低」になっているという具合に、リスクがないこと、害がないことが着実に評価軸としてジワジワ進出していることを感じる。

他人に何か役割を果たしてもらうことを、自らの理想として捉えていないから、他人が何もしてくれないことを歓迎する社会が定着する。害がないことを善とする「低感情社会」では、人間の人間らしさは厄介なものと忌避される。それは労働においても同じで、過剰に主義主張がある人や、他人を競争で打ち負かして成功したいタイプの人間、熱意がありすぎて他人に感情的になってしまう人間が「害」であるとされるから、そういう人を避けたり、そういう生き方をしない人が増えて、共有空間に必要以上にかかわらず、用が済んだら自分の世界に帰るような生き方が選択されるようになる。

これは少子化にも関係していると思う。すべての人間がどうであるかはわからないが、人が子供を欲しがらなくなる理由の一つは、他人に期待しなくなったからではないかと考えている。自己の幸福の内数ではなく、「あればいいな」的なプラスアルファとして、他者の存在を置くことで、無理にそれを獲得しなくてもいいという考えがベースになると、それを手にいれるリスクと天秤にかけられ、そのリスクが大きくなると、対象を獲得することを放棄することが選択される。

私達が子供を持つことを避けている理由の一つに、今、二人でも十分幸せで、かつ、自分たちだけで満足や幸福を仕立て、増幅させることができるから、他人に何かしてもらう必要性を感じないというものがある。「給料さえ振り込まれれば、残りの人生は自分の余暇と個人活動で満たすから、労働における充足は不要です」と割り切るのと、異なるようで似ているのだ。


4.他人に期待しない

私たち夫婦は、以前の記事にも書いたように、他人に期待しない。他者への期待値の低さはどこから来るのだろうか。人間的なものを自然と寵愛できるような個体に育つかどうかの分岐点はどこにあるのだろう。

私自身も、幼稚園時代に、周りの男児が戦隊ヒーローやスポーツにハマる一方で、それらには一切興味を持たず、数字、道路や車などの記号・機械・物質にハマっていた。他の男児たちは、強いもの・人間を媒介し何かを成し遂げることに夢を感じ、私は制御されたものが無機質に動くことに夢を感じていた。妻も東京で新しい生活を送るにつれ「自分は人間に対する執着や関心がない事に気づいた」と何度も話している。逆に、これまでは無理して仕事のため、親のため、コミュニティのために、人を中心とした生き方をしていたのかもしれない。

この分岐は決して馬鹿にできるものではない。前者は小学校になると「チームで動くこと」「チームの中で自分が良い位置に立つこと」「チームで何かを成し遂げるために他人に期待・要求すること」「他人の存在を自分自身の満足指標の内数にすること」を覚える。だから学級会も文化祭も体育祭も盛り上がるのだ。歌手のライブも五輪も盛り上がるのだ。そしてこれは、既存社会が持続するために必要な人間の要素であると思う。

一方、記号・機械や物質に魅了された私は、原理的にどうにかなるものとならないものを区別し、どうにもならないことに対して感情を向けることが無駄だということを覚えていった。勝負なんて勝つ側と負ける側がいるんだから、どっちでもいいじゃないかと思ったり、自分ひとりでコントロールできないことなんて、脳が異なる他人の判断や行動に左右されるんだから、最初から期待や理想を描くこと自体が無理なんじゃないかと思うようになった。

「勝負に勝ちたい!」ではなく、「このゲームの勝敗はどういうふうに決まるんだろう」というところに関心が向くのである。私がダイヤグラム(交通機関の運転形態)に長年ハマっているのも「構造や理由を知りたい欲求」に伴うものだろう。そこに「他者の協力」は不要のだ。

これが妻との結婚・関係をとても安定的なものにしている。これをまさに先日話していた。たとえば私は、街を歩いて写真や動画を撮影し、それをYouTubeにアップして収益を得る活動をしている。だから私にとって「外出」=「撮影」=「活動」である。

けれども、妻と出かける時には絶対にそれをしない。なぜなら、他人といる時には他人のアレンジを楽しみたいと思うからだ。他人と一緒にいる時に個人的な計画や目標を立てると、それに拘束されたり、それが達成されるかどうかが満足の指標になってしまう。そうすると、予見可能な行動や選択しかできなくなり、他人と一緒にいる意味がなくなってしまうと思うからだ。だから二人で出かけるときは、妻の気まぐれを最大限楽しむ。妻は急に何かを発見したり、気分が変わることがあるが、その変化も含めて面白いのだ。

こう思えるのは、私達がプラス思考で期待値を低くしていること、自分だけで完結する娯楽を多数持っているからだ。楽しみにしていた旅行が交通機関の運休で中心になれば、残念に思うことはあるものの、過剰に絶望したり不機嫌になることはない。なぜなら、次の瞬間には、他のやりたいことにシフトしているからである。良くも悪くも人生の振替輸送が得意である。その代わり、同じ目標に向かって一致団結したいと考える人との相性は極めて悪く、夫婦ともに、そういうコミュニティの中で苦労したり、コミュニティを離脱したりした経験がある。

5.脱労働志向と少子化

結局、冒頭のタイトルは何なのかという疑問にこの記事が全然答えられていないことに気づく。

労働へのコミットをできる限り小さなものにしようとする動きは、激しい感情的事象を回避する手段として機能しているんじゃないかとここまで考えた。それは「激しい感情表出に遭う」苦痛と、手に入れたい幸福・期待値を天秤にかけた時、激しい感情に触れるくらいなら手に入れたいものを諦めたほうが良いという思考が働いているんじゃないかと考えた。

さらに、手に入れたいものの質が少しずつ外部依存から自己完結的なものに変わってきているから、他者・集団・社会にそれを追求しなくても達成しやすくなってきていることが、外部への欲望をますます縮小させているのではないかと考えた。満足と他者の相互関係が希薄になることで、自己完結では達成できない幸福は追いかけられにくくなり、数を減らしてゆく。そんなイメージだろうか。日本語が不自由なので、全然まとめられていない。

求めるもののレベルが下がったのか、求めるものの質が変わったのか、どちらも当てはまるかもしれない。こうした変化は否定的にばかり捉えられるが、現代人が新しい幸福のあり方を発見してきている証拠でもあると思うし、問題視せず単純にそれを楽しめば良いだけなんじゃないかという、いつもと同じ結論に至る。こういう思考の機会をくれる大学生の妻には感謝しかない。

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