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社会不適合者が痛感する「つくる」ことの大切さ

とても面白い記事を拝見したのでNoteを書きたくなりました。記事はリンクの通りなので、ぜひお読みください。

人間が大人になっても「勉強」観をアップデートできていないことは日常生活で痛感するところです。特に就職してからは、何か勉強していると話すと「それって仕事の役に立つの?」という質問を嫌というほどされます。読書でさえも、ビジネスに役立つかどうかの文脈で語られることが多く、単純に、知らないことを知る楽しさという意味での「勉強」は、どこかに葬られてしまったのだろうかと感じざるを得ない場面が少なくありませんでした。ずっとぼんやり考えていたことを可視化してくださった記事に感謝いたします。

以前の会社の同期も、私が英語を勉強していると話すと「仕事に役に立ちそうだね」と言っていましたし、とにかく「仕事」「社会的成功」「相対的位置の上昇」のために勉強はあるのだという認識が強いのだと思いました。そういう価値観であることがよくわかる言葉が「勉強してるの?偉いね」っていうやつですね。ちなみにその同期に「私は労働での成功には関心がなく、割り切って働いて、日常生活や好奇心を楽しむ部分に時間資源を割きたい」と話したことがありますが「起業とかフリーランスで働けばもっと活躍できると思う」という返事が返ってきたことがあります。ただ「楽しくいきたい」と伝えているのに、「成功したい」に変換されてしまうのかもしれません。

それは両親や親戚の年長者を見ても同じです。勉強というのは苦痛なもので、一生懸命努力して取り組むもので、必要以上にやるのは「我慢」であり「偉い」ことなんだという認識が強いですね。会社の仕事だけしっかり取り組んで、家庭を持って子供を育て、家ではテレビを見てゆっくり休んで、休みの日は子供の用事に付き合ったり、旅行したり、出世して子供を一人前に育てて…これ以外の文脈で知的好奇心を満たすことはあくまでも「オマケ」という認識なんだろうなと痛感します。この本を読んで面白かったとか、考え方に影響したとか、そういう話はほとんど聞きません。

国民的アニメといわれる「ちびまる子ちゃん」「サザエさん」「ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」、どれも家族や子供がテーマの中心に置かれやすいものですが、親(大人)が読書したり、何か仕事やライフステージに関係ないことを勉強する場面は出てきません。何か目標に向かって勉強する/頑張る姿だけが描写され「偉い」こととされます。大人になったら学びは終了で、勉強は子供の仕事である、という感じでしょうか。労働に役に立たない知識を吸収することを、どこか「プラスアルファ」「定形外」の営みと認識してしまう文化があるようです。呼吸をするように本を読み、物事を深く考えるみたいなことは、そんなに稀有なものなのでしょうかね。

1.自身の受験経験

私自身も中学受験を経験した人間です。私の場合はこの記事で書かれているパターンとは真逆で、人生に対し良い方向に結果が出ましたが、それはやはり本当の意味で親から期待や強制をされなかったこと、小学校の時点で「つくる」経験が十分にできていたことにあると思います。

(1)幼少期

私は幼少期から一人でトミカやレゴで遊んだり、画用紙に駐車場や道路・線路の図を描くことを楽しんでいた内向的な人間ですが、そのおかげで、黙々と一人で何かを「つくる」ことが楽しいと本能的に感じられる感性を身に着けることができたと思います。それを作ることで「上手」だとか「すごい」だとか評価されることを目標とせず、ただ自分が満足すれば幸福であるという、良い意味での「独りよがり」を存分に味わい、それを親から否定されずに幼児期を過ごすことができました。

(2)就学期

多くの子供がスポーツや戦隊ヒーローごっこをする中、建物や道路の図を描くことが趣味だった私。交通には数字がつきもので、制限速度、時計、距離など、数字を使って物事を考えることに面白さを感じていました。この時点でバスや電車の時刻表を読みまくっていました。そこで体験学習から始めた公文式の数学がピッタリ当てはまり、数学の自学自習(学年に関係なくカリキュラムをどんどん進めていく公文式のスタイル)に没頭するようになりました。この自学自習も「つくる」行為そのものでした。

(3)中学受験<メインテーマ>

多くの人が塾に行ってめちゃくちゃ勉強させられるようなスタイルの中学受験ですが、私は公文式の数学の貯金だけで中学受験を乗り切りました。お受験の解き方を無視して、方程式で一瞬で解くやり方です。詰め込みも知識も不要で、中学受験を真っ向から否定するような勉強方法をとっていました。塾にも通いましたが、長時間授業を受けるのとか、他の生徒とずっと一緒にいることが嫌だったんですよね。終わったら帰りたい、嫌いな教科は勉強したくない、こういう性格だったので、予備校の統一模試試験でも、数学以外は母集団の下位3割に位置していました。いわゆる御三家を目指すような「お受験エリート」のようにはなりませんでした。

この時点で、人より優れていたいという感情や欲望が少なかったんだろうなと思います。もしその願望があれば、数学のように他の教科も伸ばして優秀な学校に合格したいと思うはずだからです。まったくそうは思いませんでしたし、好きなものをただずっとやっているだけにすぎませんでした。これを許して肯定してくれた両親のことを考えると、私は親ガチャ大成功の部類なんだろうなと思います。

テストで失敗したり人よりも悪い成績を取ったりすることで自己肯定感が下がったりすることもありませんでした。なぜなら「小学校6年生の勉強(中学受験の模擬試験など)でたまたま負けたとしても、既に自分は高校数学までじっくり勉強してきた(この時点でセンター試験の問題を解けていました)し、決してこの人たちより劣っているわけではないんだから、運が悪かったと思うことにしよう」と思えたからです。記事で問題点とされている学生時代に植え付けられた「負け組」意識というのが私には芽生えず、負けることが「悪いこと」と思わない思考回路を手に入れられたことが幸いだったと思います。その勝負で負けただけなのに、一度の敗北で相手よりも劣っていると認識することがどれほど恐ろしいことか、これが競争社会の罠であると心底感じます。

私は机に向かう勉強よりも試験を受けることが好きで、これが上記の思考に影響していると思います。テストはあくまでも勝負ですが、まるで競馬のように「当たり」「はずれ」程度に気楽に捉えて自分の力試しをする意味でテストを楽しんでいたのだと思います。数字が好きなので、自分が数値化されることが面白く、自分自身がデータベース化されていくことに喜びを見出していた感じです。他人はそこには出てきません。勝ち負けではなく、物事が数値化され、データベースファイルを手に入れることに快楽を覚えていたのです。「凄い人」に憧れるのではなく「その凄い数値がどのようなものか」に憧れるようなもので、人に注目しないので、人に対する感情が生まれにくいという利点があります。

(4)大学・就職

緩い自称進学校のようなところに入れたので、それなりに周りとの比較や一喜一憂もありましたが、その後も自由に「好きなものだけを掘り下げるスタイル」で勉強を続けることができました。もちろん、大学受験はさらに勉強と能力の数値化がはっきりしてくるので、数字を取るために勉強するようなものに偏向していたことも否めませんが、やはり「偉くなりたい」とか「人よりも優れていたい」とかいうのは思いませんでした。ホームステイに参加し、そこで人と仲良くなりたいから英会話に通ったりもしました。ただ人と仲良くなりたいから英語をやる…数学と同じで、英語も「楽しいからやる」「勉強自体が目標」でした。

私は内向的で変わり者、社会のリーダーになるとか、出世するとか、そういうイメージがまったくなかったので、優秀になって人に勝ったところでその先にさらなる苦痛が待っているとしか思えず、一流大学に行って大企業に入りたい!みたいな考えはありませんでしたし、そういうエリートたちは気の毒だなとさえ思っていました。自分の時間を大事にし、身の丈に合った、自分が楽しい人生を歩めればいいと思っていました。自分の時間を大事にしたい…私が好きなZ世代の方々が重視していることですね。

親の期待も特にはありませんでした。親自身が医療系で自分たちでやりたい仕事をしていたようですが、子供には自分たちと同じ道は強制しないという方針でしたし、肩書とかにも興味がなさそうでした。面白いと思えるもので食べていけたらいいよねって話す程度でしたから、何か子供を通して自分の未達成目標をかなえたいとかそういうこともなかったように思えますね。

文系とか理系とかそういう話は固定観念のようで躊躇われますが、文系の場合はほとんどの人が同じようにサラリーマンになる一斉レースなので、良い会社に入ることが指標になりやすいですが、理系(技術職)の場合は、自分が詳しいことを極めていくことに喜びを感じるタイプの人が少し多いように思います。私の親も世代の割には肩書や社会的地位に無頓着ですが、医療職として知識を更新することや問題点を考えることには貪欲でしたから、何を満足とするかなんでしょうね。良くも悪くも、普通に生活して、普通の人生を送ることができればいいんじゃないかという感じでしょうか。

2.今の私

その結果、私はアンチ就活を通して社会不参加型の精神を貫き就職活動を放棄、既卒無職になり、その後は緩い会社や窓際を経て、今はSEとして限定正社員みたいなポストで働いています。

前にも書いた通り、時間の余裕を最大限に確保できる働き方をしているので、退勤後が人生の始まり、妻と一緒に、あるいは自分一人で、常に生産活動(料理、動画撮影、散策、コンテンツ編集、読書、労働に関係ない勉強)をしまくっています。誰からも評価されませんし、される必要もありません。会社労働は今後給料は一切上がることはありませんが、責任も重圧も今後一切増えない道を選択しています。

どんどんやりたいことが増えていき、図書館に行くだけで自分が無知であることを痛感し、読みたい本が無限に増えていきます。人生に退屈はありません。「つくる」時間が24時間の5割以上あります。自分が無能だと思ったり、コンプレックスを持ったりする暇は1秒もありません。その暇を使って次の動画のサムネイルを1つ作りたいし、再開発の工事現場を見に行きたいし、本を読んで思ったことを書き出したいし、妻の大学のテキストを一緒に読んでみたい…もっといえば、自分の行動や学びの記録を全部データベースファイルに構築したい…そんなことを考えるばかりの毎日です。

子供もいませんし、家も買いませんし、「良い人生」みたいな将来の目標もありません。人と比べるタイプの人からしたら、劣等感だらけの人生でしょう。しかし、この世で一番幸せなのは自分だと思っていますし、妻がいてくれる自分の生活は唯一無二です。同じように、どんな人にとっても、「良い人生」って自分自身のオリジナルの人生そのものやん!と思います。今日が最高なのですから、最高の今日を死ぬまで繰り返せばいいだけなんですよね。そこに他人や評価が出てくる余地がないわけです。

ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン!という歌詞の曲がありますが、私はオンリーワンにさえならなくてもいいと思います。重複しても個性がなくても、他人と比較しなければ重複していることや個性がないことに気づくことさえないわけですから。他人が美味しそうなオムライスを食べていて、オンリーワンじゃないから、同じオムライスを食べることをやめますか?いえ、オムライス、喜んでいただきます。黙々とオムライスを味わっていれば、他人が同じだろうが、オムライスを自分なりに味わうという行為に、上も下も特別も平凡もありません。時刻表に記載されている無数の各駅停車のように、何物でもない何かがかけがえのない存在なんです。何物にもなる必要はないと思います。そうやってひたすら進んでいきたいです。

私をこれまで内面から支えてきたものは「つくる」経験だったんだということに気づくことができました。

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