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クリストファー・アレグザンダーの「少年」

建築家のクリストファー・アレグザンダーは、『都市はツリーではない』のなかで、「遊び」について語っている。卒論のために読んでいた中谷礼仁『セヴェラルネス+ ―事物連鎖と都市・建築・人間』がきっかけで、このことを知った。

CIAMの理論家達が好きな思想の一つにリクレエイションと他のものの分離がある。この考え方は現実にみられる都市の運動場に具現化されている。アスファルト塗装され柵で仕切られた運動場は、<遊び>が我々の心のなかでは独立した概念として存在するという証拠を表すに他ならない。この考え方は遊びそのものの本質とは無関係である。自尊心の強い子どもは運動場では遊ばないものである。遊びそのもの、子どもたちのする遊びの舞台は毎日変わる。屋内で遊ぶときもあるし、仲良しのガソリンスタンド、空家、 川岸、週末で休みの工場現場などで遊ぶときもある。遊びと必要な遊び場は一つのシステムを形成する。このようなシステムが町の他のシステムと切り離されて独立に存在すると考えるのは間違いである。種類の異なったシステムが互いに重なり合い、さらに数多くのシステムとも重なり合う。ユニット、即ち遊び場として看なされる具体的な場所も同様でなければならない。 自然の都市ではどこでも見られることである。 遊びはあらゆる場所でおこなわれる。遊びは大人の生活のすき間を埋めてくれる。

クリストファー・アレグザンダー『都市はツリーではない』

ここにある「自尊心の強い少年」という概念は非常に面白い。アレグザンダーが言っていることは、要するに、この「少年」たちは、大人が勝手に決めた秩序をすり抜けて、あらゆる場所で遊んでしまう。

中谷礼仁は、先に触れた本のなかで、この少年についてさらに一歩進んだ考察をしている。「少年」は、ただ大人の想定と無関係に遊びをつくりだす存在であるばかりか、「遊び場」をその都度つくりだすことによって、ひとりの計画者になるというのだ──大人たちの計画に比べれば、量的には小さく、弱々しいものかもしれないけれど。

詳述しないけれど、中谷にとって、この「少年」は、トップダウンにつくられる「ツリー型」の都市と、自然に形成される「セミラティス型」の都市の間をつなぐ、理論的に重要な存在として位置づけられている……。

初出:http://seshiapple.hatenablog.com/entry/2014/01/10/171309

この記事から4年経って

──この記事は、4年前に大学生として卒論をつくっていた頃に書いた上記記事の一部を削り、リライトしたものである。この記事に再び触れたのは、最近、自分がいわゆる「地域づくり」に関わる仕事をしていることにいろいろ悩みや限界を感じることが多くなっていたからだ。

「大人」と「少年」を対比的に捉えるのではなく、それぞれがつくりだす秩序が折り重なったものとして都市を捉えようとするアレグザンダー&中谷の視点は、いまでも新鮮で、重要なものに思える。

自分のちっぽけな仕事も、ちっぽけでありつつ、そうではない部分がある。同様に、「地域」の大きな動きも、大きいかもしれないけれど絶対ではない。そんなグラデーションや重なり合いの感覚に目を向けることができて、少し気分が落ち着いた──別に仕事の展望がすぐ開けるわけじゃないけど。

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