脱・「悪意モデル」論
悪者なき悪
「悪意モデル」
ヒーローものの漫画には、ほぼ必ず「敵」がいる。通常、敵は「悪」として描かれる。彼らは何かしらの悪意を持っていて、善人を痛めつけたり、物を盗んだり、街を破壊したりする。
「悪意を持った悪人(あるいは悪の組織)がいて、その人物(組織)が原因で悪いことが起こっている」という構図は、とてもわかりやすい。そこに複雑なメカニズムはなく、だからこそ「正義の味方」による勧善懲悪が達成されれば、起こっていた悪いことも全て消え去ってめでたしめでたし、で片付けることができる。
この文章では、このような「悪い物事の原因を悪意を持った悪者に帰して説明する」構図のことを「悪意モデル」と呼ぶことにしよう。
私がこの文章を通じて主張したいことは、一言でまとめようとすればこうなる:
「社会におけるたいていの『悪』は、『悪意モデル』では説明することができない構造的なものである。そして、悪を説明するために『悪者』を探すのは無意味で、一面的で、浅薄でさえある。」
要するに、本稿の内容は、社会的悪に対する私の脱・悪意モデル論である。
「世界からのサプライズ動画」は悪なのか?
最近、「世界からのサプライズ動画」というサービスが「人種差別」なのかをめぐって論争が起こっている。
最近起こった炎上事件を題材に書くのは少し怖いが、この投稿を書こうと思ったきっかけとして触れないわけにはいかないので、この騒動のいきさつを説明したい。
「世界からのサプライズ動画」とは、世界各地(ウクライナやバングラデシュなどもあるらしいが、大半はアフリカ)の人々が、依頼されたメッセージをカタコトの日本語で読み上げている動画を購入することができるサービスだ。
サービスとしては(私の記憶が正しければ)1年ほど前にはじまり、一時期結構な話題になっていたこともあって、それなりに人気があった。
そんな「世界からのサプライズ動画」を、男性アイドルグループ「嵐」のメンバー二宮和也さんのYouTubeチャンネルが利用したことが、今回の炎上騒動の発端となった。(詳しい内容は以下の記事を参照)
このニュースは、「世界からのサプライズ動画」は「悪」なのか?という問題を中心に、比較的大きな論争を巻き起こした。
「悪」だとする側の論点としては、黒人(あるいは黒人でなくとも、外国人)がカタコトの日本語を喋る姿を見て、面白がるという構図がこのサービスの人気の背後にはあり、それは人種差別や外国人差別につながる、という主張が中心であった。例えば、電車の中や店頭で流暢とは言えない日本語を頑張って話している外国人がいたとしよう。その人を見て面白いと思い笑うのは、あきらかに差別的な行為だ。フォーマットとしては、「世界からのサプライズ動画」もそれに近いものと見られかねない。たしかに(個人的な意見としては)、動画制作者の人権意識という点からは、件のサービスは批判を免れないだろう、とは思う。
こういった問題点は私が整理するまでもなく、すでに多くの方々によって説明されているので詳しくは省略する。だが(後述するが)、私はこの問題は「差別」の問題としてよりもむしろ「搾取」の問題として捉えた方が全体像が見えやすいのではないか?とも思っている。
では、サービスを擁護する側の声としてはどのようなものがあるだろうか。説得力のある意見としては、「世界からのサプライズ動画」サービスは出演者であるアフリカの黒人たちの生活を支援している側面もある、というものだった。(「面白いんだしいいじゃん!」型のあまり説得力のない意見も多いが…。)実際、「世界からのサプライズ動画」自身も、同サービスの「支援」の側面は繰り返し強調している。
たしかに、アフリカの貧困国には、客観的に見て明らかに何らかの経済的支援が必要とされている状態にある人々が大勢いる。そういった現場に雇用を産み、人々に収入をもたらし、しかも日本の消費者にも笑顔を届けることができる。こう考えると、「世界からのサプライズ動画」は善意のサービスである。少なくとも、サービスの提供者(一般社団法人WORLD SMILE)は善意でこの動画を制作している。
正直に言おう。私は、この「サービスの提供者は善意で動画を制作している」という部分は否定できないと思っている。だから、「世界からのサプライズ動画」を悪として批判するのならば、「悪意モデル」は通用しない。
「差別思想と搾取精神に支配された、悪意を持った動画制作者が、黒人をダシに人権意識の欠如した動画を販売している。そして、同じく人権意識の欠如した悪意ある消費者が、黒人を笑いものにして楽しんでいる。」
これでは、本当の問題は見えてこないと思うのだ。カーテンの後ろで手綱を引いている悪い人がいると信じて、その人を攻撃しようとしたところで、実際にはそんな人がいないのならば、その批判は空を切るしかない。
善意の構造——地獄への道
戦争、飢餓、貧困、自殺、etc…。社会は多くの悪徳で満ちている。そして、困ったことに、これら社会悪はすべて「悪意モデル」では説明しきれない構造的な悪である。正義の味方があらわれて、悪意を持って貧困を作り出していた誰かを懲らしめて、それで世界の貧困問題は解決、というわけにはいかない。経済学者は正義の味方にはなれないのだ。(革命によって「悪しき資本家」を打倒すれば、資本主義が生み出す悪はすべて一網打尽に克服できると信じていた人々もかつてはいたが……そして今もちょっとはいるらしいが…)
社会科学(社会学や経済学、政治学など)をやっている人間にとっては当たり前の話だが、「社会問題」の原因を調べるためには、その問題の背後にある仕組みを調べなければならない。悪者を見つけて、はい解決という話で論文は書けないのだ。
差別
「差別の問題」とは、「『差別的な人がいる』ことの問題」だと思われていることがある。
これは、「悪意モデル」的な概念だ。このモデルで「差別」の問題を捉えれば、「差別的な人」という悪人を見つけ出して、その人を(無知が原因なら)啓蒙するなり、(知った上で差別的発言を楽しんでいるなら)道徳教育を施すなりヘイトスピーチ禁止法で罰則を課しとっちめるなりをすれば、社会からは差別が減っていくということになる。
この考え方は間違いではないだろうが、近年では、差別の問題はそこにとどまらないということが(主に実際に差別を経験する当事者たちによって)主張されている。構造的な差別は、善意から強化されうるのだ。
例えば、こんなケースがある:
Aさんは、学校で受けた道徳教育の結果、とても高い人権意識を有している。彼は「人種差別は絶対に良くない」という信念を持っている。ある日、Aさんの職場に肌の色も母国語も他の多くの日本人社員とは違う外国人の新入社員(Bさん)が入ってきた。多くの同僚がBさんを避ける結果、彼が若干孤立してしまっていることに気がついたAさんは、Bさんにこう語りかける。
「こんにちは!僕は肌の色とかそういうのぜんぜん気にしないタイプだから、困ったことあったら遠慮なく声かけてね!!」
「俺はお前は異質な存在だと思っているが、異質であるとしても受け入れてやるぜ!」ととれるこの発言に、Bさんはほぼ間違いなくモヤっとするだろう。最近では、こういった「無自覚な差別助長的言動」をあらわす言葉として、「マイクロアグレッション」という概念が注目されているらしい。
別の角度からの話としては、経済学における、「悪意なき」差別構造が社会に生まれる過程についての分析が挙げられる。
たとえば、2005年にノーベル経済学賞を獲得したトーマス・シェリングは「シェリングの人種分離モデル」(あるいは「分居モデル」)を用いて、「人々が異人種に寛容でも、いつの間にか白人が多く居住する地域と黒人が多く居住する地域に分かれてしまう」という事実を証明した。
これらはちょっとした例に過ぎないが、差別は単に、「差別的な悪い奴」が差別的な言動をとることから生じる問題ではない、ということはこうした話からも明らかである。極端に言えば、全員が聖人君子な世界でさえ、差別は構造的に生じうるかもしれない。
これを踏まえて、もう一度「世界からのサプライズ動画」の問題に話題を戻そう。
制作者側の弁明は、こういうことだろう:
自分たちは「決してアフリカ系の方達を『笑い物にしている』」悪い差別主義者などではない。むしろ、差別的な意識を「潜在的に」有しているのは批判者の側である。
だが、これは悪意モデルに基づく論点の陳腐化である。自分たちは悪者ではない。悪者はあっちだ。この反論では、(仮に善意に基づいていたとしても)本サービスが「構造的な差別」にあたるのではないかという批判に応えられない。もっと悪いことに、このような弁明は「誰が悪者なのか」という、悪意ある主体を探す魔女狩りへと議論を動かしてしまう。ところが、魔女なんてどこにもいないかもしれない。もしくは、私たち全員が魔女なのかもしれない。
「誰もが善意と正義感で動いた結果、人権意識を欠いた差別的な動画を人々が笑顔で購入しているという現状が作られてしまっている。それが問題なんだ。」
そういったより透き通った(「悪意モデル」に基づかない)批判とそこから生まれるはずのより建設的な議論が、論点の「悪者探し」への移行によって打ち止めになってしまいかねないのだ。制作者側は、自分たちは悪者ではないと弁明したり、本当の悪意は批判者にあると反撃したりするのではなく、「いや、それでも件の動画は『人権意識を欠いた差別的な動画』ではないんだ」と正面から説明しなければならない。それが難しいのなら、「世界からのサプライズ動画」は善意に基づいた、人気のある、しかし無自覚的な差別構造を抱えたサービスであるという結論を逃れられないだろう。
搾取
もっとも、私個人としては、「世界からのサプライズ動画」がどれくらい差別的かというのは正直なところ判断しかねている。「まったくもって人種差別的ではない」と言い張るのは無理があるだろうとは思うが、そのサービスが実際にアフリカの貧困地域に雇用を生み、人々の生活を助け、日本人にとっても何らかの利益をもたらしていることを考えると、「人種差別的な要素はあるものの、それを許容できるだけのベネフィットもある」と言い張ることは可能であるかもしれない。
「私が人種差別的だと思ったものは全てノーだ!」と言い張りたい人々は同意しないかもしれないが、少なくとも私は、社会は異なる諸価値の天秤で物事を決めていく場所だと思っている。近代社会において、「人権意識」がその秤に乗せられた錘のなかで特に重いものであることは否定しないが、(基本的人権という絶対不可侵で重さ無限大な錘を抜きにして、)それと釣り合うだけの価値があるのならば、多少の差別的側面や人権侵害が見逃されなければならない場面も存在しうる。
「世界からのサプライズ動画」が犯している人種差別の錘がどれほど重いのか?それについては私個人では何とも言えないし、水掛け論になってしまうだけなので、これ以上は論じない。(一応、私は結構重いだろうとは思っている。)
だが私はむしろ、「世界からのサプライズ動画」が(善意のもと)犯している悪は、差別の助長ではなく構造的な国際的搾取の助長であると考えている。
事実として、世界には経済的な先進国と後進国が存在する。日本は先進国側で、アフリカの多くの国は少なくとも日本から見れば後進国である。(中にはこれを「アフリカの国々を下に見ているから差別だ」とおっしゃる人もいるのかもしれないが、)認めなければならない事実として、私たちは非常に非対称的な国際社会を生きている。私たちは「アフリカからのサプライズ動画」を買うことができるが、アフリカの人々が「日本からのサプライズ動画」を買うサービスは現状(私の知る限りでは)ない。もしあったとしても、そのサービスが有している位置付けも、動画を買う人たちの意識も、全く異なるものとなるだろう。
社会学や経済学では、このような不均衡な国際社会の現状をGlobal Stratification(国際階層化)の問題と呼ぶことがある。
Global Stratificationの大きな問題は、こうした階層的(格差的)な国際経済の構造は多くの場合、国際的な搾取を、一見ウィン・ウィンな関係としてもたらすということだと私は思っている。
例として、ベトナムに衣服工場を建てる日本のアパレル会社(以下、U社)を考えてみよう。なぜ日本に工場を建てないかというと、ベトナムの方が人件費が安いからだ。コストの低い場所で生産を行う。会社からしたら当たり前の判断である。そこに悪意はない。
U社とベトナムの労働者のおかげで、日本人は破格の値段で衣服を購入することができる。しかもそれだけではない。U社の賃金水準が(日本よりは安いが)ベトナムでは高い方ならば、U社はベトナムの人々にも、雇用を生みだすことで良い影響をもたらしている。一見したところ、これはかなりうまいウィン・ウィンの構図を作り出している。「世界からのサプライズ動画」でも、制作者側の理念として「現地での雇用の創出」があったのを思い出してほしい。
しかしそれでも、この構図は疑いようのない搾取の側面を有している。U社が日本ではなくベトナムに工場を建てるのは、ベトナムが日本よりも遅れているからだ。逆に言えば、ベトナムが経済成長し、例えば日本と同じ賃金相場になった時点で、U社はベトナムの工場から撤退するだろう。「日本より遅れているから進出する」というシステムは、言い換えれば、「日本で衣服を安い(競争に勝つことのできる)価格で売るためには、日本よりも遅れた地域で労働を買わなければならない」ということを前提にしている。要するに、U社はベトナムでの雇用創出によって短期的にはベトナム側にも利益をもたらしているが、長期的には、ベトナムと日本の間の経済格差を維持しなければ存続しないビジネスモデルを作り出している。
日本はベトナム人の「安い」労働の結果つくられた衣服を喜んで消費し、無意識のうちに彼らの労働の成果を吸い取る。筋金入りの自由主義経済学者なら「それは搾取ではなく国際分業だ」と言い張るかもしれないが、私はそこまで悪魔にはなれない。表面では華やかで進歩的な自由主義「グローバル経済」が、その裏側では先進国が後進国から搾取する仕組みで動いている——すくなくとも、「搾取」と呼ぶに相応しいと思われる非対称性を孕んでいる——ことは、私の目には明らかだ。資本主義とは弱肉強食のシステムだ。そこには効率性という意味での良さが確かに存在するが、良い面ばかりではない。強者が弱者に、時に無自覚につけ込む資本主義的市場観を地球規模に拡大していったのが現代の国際経済であり、だからこそ、「公平な貿易」のような言葉も声高に叫ばれる。
「世界からのサプライズ動画」も同じ構造を有している。我々からすると格安の料金(オーダーメイドで数千円!!)でアフリカの人々を「利用した」動画を買うことが出来るが、それは現地に雇用を生み、彼らにとってはとても高い賃金の仕事となる。短期的にはウィン・ウィンの関係だと言えても、大局的に見ればこれは「搾取」に違いない(当人たちは「搾取はない」と言い張っているが…)。このビジネスモデルに権力関係が存在しないと言い張るのは、無茶な話だ。
だが、ここで最も大事なのは(繰り返しになるが)、このグロテスクな格差構造に必ずしも「悪意」は必要ないということだ。
貧しいアフリカの国々を救いたい!と思った善意溢れる団体が、現地の貧しい人々を雇用して撮影した動画を、日本の消費者が単純に自分のために(あるいは、もしかするとアフリカの貧しい人々にお金を寄付したいという善意も相まって)購入する。そこには何の悪も見出せない。
しかしビジネスが立ち行かなくなってその団体が撤退したら?(その危険性があることを、本人たちが公言している)
簡単な例え話をしよう。あるとても貧しい(が、村人たちは餓死者を出しながらもなんとかその村を存続させてきた)村で、魚を配って人々を飢えから救っていた人(「魚配り聖人」と呼ぶことにしよう)がいたとする。ある日突然、魚配り聖人がいなくなってしまったら?魚配り聖人が村に来てから、村人たちは農業をする必要がなくなった。だから、耕された畑はもう一つも残っていない。心優しい魚配り聖人は、日々飢えに苦しんでいる村人たちにわざわざ魚捕りをさせなかった。だから、残された村人たちは魚の捕り方を知らない。こうして、たちどころに、村人たちは餓死してゆくだろう。魚配り聖人に一寸の悪意もなかったとしても、こういうことは起こりうるのだ。
もしビジネスが立ち行かなくなったら、「世界からのサプライズ動画」制作チームは日本(情報によると本拠地は台湾らしいので、台湾かもしれないが)に帰って新しいビジネスを始めれば良い。しかし、雇用されていたアフリカの「出演者」たちはその場に取り残される。かつての賃金水準を維持できるような仕事はもう残っていないかもしれない。彼らは、動画でカタコトの日本語を話す以外の労働の方法を知らない(忘れてしまっている)かもしれない。下手をすれば、「世界からのサプライズ動画」雇用が、元々その地域に存在していたローカルな経済秩序(賃金水準や農業従事者の割合など)を乱してしまった影響で、彼らの撤退後の現地には経済的/政治的混乱がもたらされるかもしれない。搾取の恐ろしさとは、こういった側面である。貨幣や財・サービスの流れだけでなく、抱えているリスクにも非対称性が存在するのだ。
「彼らは悪人だ」「私は悪人ではない」
これまでしつこく述べてきたように、「世界からのサプライズ動画」は「悪人が悪意を持って作っているサービス」だから問題なのではない(と私は信じている)。それは、善意を持った人々によって経営されながらも、無自覚に差別であったり、搾取であったりという構造を有している可能性がある、という意味で問題なのだ。
だから、「彼らは悪人(差別者/搾取者)だ」「私は悪人ではない」の水掛け論では解決し得ない問題がその背後にはある。問題の脱・「悪意モデル」化が今こそ必要なのだろう。
ヨーロッパの諺に、「地獄への道は、善意で敷き詰められている」というものがある。今の社会にはどんな「地獄への道」が敷かれているのか。それについて議論をする上で、残念ながら、そこに敷き詰められているのが善意なのか悪意なのかはさしたる問題にはならないのだ。
より建設的な議論
対症療法と原因療法
やや蛇足感もあるが、「世界からのサプライズ動画」というサービスについて、脱・「悪意モデル」をした上で可能な議論を私なりに提示しようと思う。もっとも、これは今話題になっている「差別」の問題とは全く関係ない話とも言えるので、力不足ではあるが…。
それは、国際的貧困問題の対症療法と原因療法を区別して議論する、ということだ。
上にも書いたように、国際的な経済格差は紛れもなく存在する。その格差を埋め、貧困地域に暮らす人々を助けるためには、大きく見れば二つのアプローチが存在する。
対症療法とは、単純(短期的)な「治療」を行うイメージだ。例えばスラム街に工場を建てて現地の貧困層を雇用したり、戦争でしかお金を稼げない傭兵をサプライズ動画の出演者にしたり、飢える人々に魚を与えたりする方法が、これにあたる。
対して原因療法とは、より長期的な「支援」を行うイメージだ。現地の優秀な若者に企業のノウハウを教え現地産業の自立化を目指したり、フェア・トレードの普及によって格差を維持する構造的な貿易不均衡を改善させたり、持続可能な魚の捕り方を村人たちに教えたりする方法が、これにあたる。
言うまでもなく、対症療法と原因療法のどちらが優れており、どちらが劣っているということはない。あるのは、「対症療法が望ましい場面/文脈」か「原因療法が望ましい場面/文脈」かという議論だろう。
目の前に飢えで死にかけていて動けない人がいたとして、その人を叩き起こして魚の捕り方を教え込むなんてとても助けにならない。この場面で求められているのは、とにかく何でもいいから彼に食料を与える対症療法だろう。
しかし、病気が重い時には薬を与えるべきでも、病気が治ってきたら、与えるべきは薬ではなく再発防止のための健康アドバイスや運動習慣の定着のための指導になる。十分に経済発展が進んできた国に、いつまでも対症療法的な支援をしていては、それはやがて搾取をもたらしてしまうだろう。実際、近年のアフリカなどに対するNGO支援では「魚の捕り方を教える」型の支援(教育水準の向上や現地医療機関の設立…)が多いようだ。
「世界からのサプライズ動画」は本当に現在必要とされている、よい療法なのか?
先ほども述べたが、「世界からのサプライズ動画」の大義名分は、それがアフリカの貧困に対する対症療法であるという点だ。私は、「『世界からのサプライズ動画』は本当に現在必要とされている、よい療法なのか?」という点に絞って考えると、やはり「世界からのサプライズ動画」は格差/貧困の是正措置としてはやや問題含みではないか?という疑念を拭いきれない。
先ほど言った撤退後のリスクの問題然り、価格の点から見た搾取的側面の問題然り、対症療法としての問題もあるし、今の時代に、対症療法であるという理由だけでアフリカへの支援を正当化できるのか?という疑問もある。少なくとも、長期的なビジョンであったり、それが現地の経済に対してどういう(「短期的に雇用をもたらす」以外の)メリットをもたらすのかについての見解であったりといった、原因療法的なパースペクティヴも提示しない限りは、「雇用を生んでいるんです!」の一点張りは厳しいだろうと私は思う。
少なくとも本稿で言いたいことは、このように、「善悪」以外の基準を持って問題を論じた方が、「差別か差別じゃないか」「搾取か搾取じゃないか」「誰が悪人か」を言い合うよりも建設的なのではないか?ということである。
(私はあまり外国人差別の問題について勉強していないので大それたことは言えないが、)差別か差別じゃないかの問題についても、例えば「世界からのサプライズ動画」が有している差別の対症療法的な側面(遠い異国の人から何かを「祝って」もらえる。それで私たちも笑顔になれる。そうしたサービスによって、日本人にとって世界各地の人々を「身近な」存在にさせてくれ、外国の方への排他的意識が和らぐかもしれない。)と、原因療法的な(負の)側面(「たどたどしい日本語を話す外国人」というステレオタイプを助長するものである。民族的な衣装や上裸など、つくられた「アフリカらしさ」を日本の人々の意識に植え付けるものになっている。)を分けて議論をした方が建設的かもしれない。
対症療法/原因療法という発想はありきたりな一つの例に過ぎないが、それ以外にも、「悪意モデル」を脱して、ピントの合った議論を行うための軸は存在するはずだ。「悪意なき社会悪」を理解し、克服してゆくためには、そうした議論こそが求められているのではないだろうか。
2023/05/25
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