見出し画像

【巨人の肩の上から #12】-熱よりも光を

黄金の中庸——aurea mediocritas

ホラティウス『詩集』第2巻10.5
(柳沼重剛 編『ギリシア・ローマ名言集』p.141)

「……想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪さんだつされた理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。僕はそういうものを心から恐れ憎む。なにが正しいか正しくないか——もちろんそれもとても重要な問題だ。しかしそのような個別的な判断の過ちは、多くの場合、あとになって訂正できなくはない。過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合取りかえしはつく。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこに救いはない。僕としては、その手のものにここ、、には入ってきてもらいたくない」
 大島さんは鉛筆の先で書架を指す。もちろん彼は図書館ぜんたいのことを言っているのだ。
「僕はそういうものを適当に笑い飛ばしてやりすごしてしまうことができない」

村上春樹『海辺のカフカ 上』p.385-386

※本noteは特定の個人・団体・主張などを直接的に攻撃・否定することを意図して書かれたものではありません

名画にトマトスープをぶっかける!?

最近、ヨーロッパで「環境活動家」による、美術館の展示絵画を標的とした抗議活動が起こっているというニュースを頻繁に目にするようになりました。実際のところガラスの保護ケースで厳重に守られている絵画自体に被害はないとはいえ、一人の絵画ファンとしてはモネやゴッホの名画にマッシュポテトやトマトスープがかけられている映像を見るのはやはり心が痛みます。
画家の方々は自分の死後に、自分の絵画がまさかそんな仕打ちに遭うなどと思わなかったでしょうし、やはり政治的メッセージの発信のために作品をけがされたら非常に不愉快な思いをすると思います。(個人的には、死後にも立派な美術館で自分の作品を飾っていただける名誉の大きさと比べれば、ちょっと汚されるぐらいどうってことないような気もしますが。生前には全く作品が注目されなかったゴッホなんかは、もしかすると自分の絵画が標的とされたことに世界中の人々が憤慨したことを案外喜んでいるかもしれません。)

なんでそんなことをするんだろう?そんなことをして何になるんだろう?自分には理解のできない物事に対して抱く恐怖や嫌悪感は、やはり第一印象として避け難いものです。

しかし、ヨーロッパから遠く離れた東洋の小さい島国(しかも環境大臣の人選なんかを見るに「その辺の問題」についてはかなりの後進国)の価値基準から彼/彼女らの「真意」を推し量ることはやはり難しいのだろうと思うと、彼/彼女らの発信するメッセージについてどのような考えをするべきかやや困惑してしまう部分もあります。(行動の過激さをともかくとすれば)少なくとも地球環境の問題について目を向けなければならない、という彼/彼女らの主張にはもちろん一定の正当性があるからです。

加えていえば、少数派が自分の意見を多数派にも届け社会を変えるためには、やや「過激な」ノイジーマイノリティにならなければならない、という論理は実際のところ彼/彼女たちのオリジナルではないのです。もちろん「過激さ」の程度やそこに至るまでのプロセス、社会が定める規範(法)の枠内かなど決定的な線引きはありますが、「地球環境を汚染し、資源を徹底的に食い尽くすグローバル資本主義の巨大なメカニズムを止めなければ」という巨大な使命感を彼/彼女らが自分たちの狭いエコーチェンバーの中で醸成したのだとしたら、アリが象と戦うようなその戦いを前進させるための手段として、かくのごとき突拍子もない手段に出た理由もなんとなくわかります。

枝葉末節の議論になってしまいますが、このような活動を「エコテロリズム」などと名づけ、最近急に出てきた現象かのように語るメディアが多い点はやや疑問です。というのも、そもそも、このような「過激な」環境保護運動にはそれなりに歴史があるからです。言及している記事を見たことがないですが、1980年代にアメリカで活動をおこなったアースファーストという環境団体なんかは好例です(アースファーストの活動について詳細に扱った日本語文献としては、金森修「エコ・ウォーズ」(『サイエンス・ウォーズ』所収)が最もわかりやすいと思われます。この文章も、主にこちらを参照して書いています)。

 アースファーストの象徴である、モンキーレンチと石斧のロゴ

彼らは「ラディカル環境アクティビズムの極地」と称されるほど過激な環境活動で知られ、その活動は「モンキーレンチング」と呼ばれるサボタージュ活動(eco sabotageを略してエコタージュecotage)にまでエスカレートしました。これは、「環境保護のための非合法的な妨害」を意味し、たとえば具体的には、木材用に伐採される予定の森林の樹木に夜中にこっそり釘を打ち込んでおき、伐採用の鎖鋸チェーンソーや製材用の帯鋸おびのこを破壊する、という絵画へのスープ掛けも真っ青な超過激実力行使です(金森によれば「ツリースパイキング」と呼ばれるこの活動も、怪我人を出さないように細心の注意を払ってなされていたらしいですが)。
しかし、こんな具合のアースファーストの過激活動でさえ、金森によってやや肯定的な評価をなされているのですから(もちろん世間一般的には批判の方が多いと思いますが)、現時点で名画にトマトスープをぶっかけた若者たちのことをどう考えれば良いのか、やはり私にはわからないのです。金森がアースファーストに対して考えているのは、彼らのラディカルな主張と実力行使は社会には受け入れられなかったかもしれないが、彼らが環境運動の過激なきょくに立ったことで、結果的にはより「穏和な」環境保護団体にたいする社会の妥協をもたらしたのかもしれない、ということです。彼らは積極的に変人、迷惑なアクティビストを演じたことで、社会に対してそれよりかはマシな環境保護的な要求をのませる働きをした(いわば、社会に対してある種のドア・イン・ザ・フェイス・テクニックを行う役割を果たした)と言うのです。

今は(少なくとも私が見る限り、日本の社会の受け入れとしては)否定的な反応がほとんどですし、それが自然なのかもしれませんが、極論を言えば、実際に100年後ぐらいに石油資源が枯渇し、地球は人一人住めなくなるほど荒廃するかもしれません。その時になれば、「あのときモネの名画にマッシュポテトをかけた若者の主張に耳を傾けていれば…」ということになるのかもしれないのです。行動に対する不快感は拭えませんが、彼/彼女らがそんな発想に至った背景には、なにかもっと大きな問題機制が存在するはずなのです。

以上をまとめると、私の立場はこのようになりそうです:やはり彼/彼女らの行動にはあまり好意的な印象を受けませんが、地球環境について考えなければならないというメッセージには同意しますし、その主張の部分には否定的なことを述べる気にはなりません。地球環境規模での視座からは、現時点では、彼/彼女たちの「正しさ」を暫定的にしか評価できないからです(もちろん、もっとミクロな視点からは間違っていると断言できます。美術館が定めるルールも法律も破っていますし、世界の絵画ファンと天国の画家に対するリスペクトに欠けた行為です)。そもそも、彼/彼女らのやっていることは、環境運動の歴史的にはそれほど奇抜なことではないし、(相対的には)「過激さ」の程度も軽いものなのかもしれません。

事件そのものに対するぼんやりとした感想はここまでにして、この一連の事件の周辺で起こった反応、議論について、思いの丈を述べようと思います(前置きが長くなりましたが、こっちが本題のつもりです)。

「中庸」の価値がなくなってゆく言論世界

私が見た彼/彼女らの行動に対する最も可笑しく無価値な(そしてなぜか一定数の賛同を得ていた)批判は、「彼/彼女らは石油でできた衣服やリュックサックを背負っている」という皮肉にもなっていない揶揄からかいでした。地球環境の大切さを訴える者は、木の葉を編んで作った腰巻を身につけて山奥で人工物を一切避けた暮らしをしている人間でなければならないのでしょうか?ある人物が地球環境の大切さを主張するということと、その人物が資本主義文明の中で生きているということの間に、なんの論理的矛盾があるのか、私には不思議でたまりません。むしろ論理的には、資本主義文明の中で生きているか、少なくとも何らかの接触をしないと、それがもたらす環境破壊に対する批判はできないはずですね。資本主義を知ることなく山奥で一生を終える人がいたとしたら、その人にとっては環境破壊の問題など知ることもないはずだからです(たとえばその人の暮らしている熱帯雨林が巨大資本によって伐採の危機を迎えたら、話は変わってくるでしょうが)。

ただ、この皮肉にも一面的な正しさは認められる気がします。というのも、事を起こした若者たちの所属する環境団体の名称は「Just Stop Oil」つまり「石油資源の使用を直ちに止めろ」というものらしいからです。皮肉の含意はかなり極論ですが、相手の「活動家」もまたかなり無理のある極論を述べているので、まあ「目には目を」という事なのかもしれない、と思わなくもないわけです。しかしこの皮肉はあくまでも一例で、あたかも環境保護を訴える人々全体が「頭のおかしな人々」であるかのような言い口の批判が、「反・環境団体」言論のなかには見られるという私の観察はあながち間違いではないかな、と思っています。

ネチネチと長い反論をしてしまいましたが、私がこのような言論に対して抱く警戒感の根源的な部分には、それが「中立」を否定しかねないものであるという点があります。

環境問題の論点は、エコロジーは大事である、大事ではないという二分法の問いではありません。より広範で道徳的/歴史的な、人間と自然とはどのような相互作用のもとで、いかにして共生するかという問題がそこにはあり、より深くはそもそも人間と自然という二分法が適切かという問題にまで広がっています(言語的に言えば、「自然」の反対は「人為」ではなく「不自然」ですね。自然と人間の二分法を受け入れることは、ある意味人間が「不自然」な存在であるということを認めるということになります。英語natureの言葉の由来なんかを考えるともっとずっと複雑な話で、これは、ただの日本語の言葉遊びですが)。

私は、先ほどの例のような、極端で暴力的な言論の恐ろしさは、眼前に広がる重要な、そして大きな問題の本質的な側面を全て切り離し、議論の両極のみを残してしまうレトリックにあるような気がします。「地球環境は問題イシューではない」「地球環境は問題イシューだ」という二分法の次元で言い争い、皮肉を言い合い、馬鹿にし合う言論空間は、非常にとぼしいものになるでしょう。

人間はどのようにこの地球という星で生きてゆくべきか、どのような主張があり、どのような結論なら受け入れられるのか。そういったバランス感覚を有した豊穣な議論は、中立を認めるところから生まれるのではないでしょうか。

私は、地球環境は21世紀社会に突きつけられた大きな問題の一つだということは認めざるを得ないと思っていますし、かといって「石油の使用を直ちに止めるジャスト・ストップ・オイル」ような過激な変革は不可能だし、そういった主張は言葉だけで中身を伴わない空虚なものだとも思っています。「どちらの言い分もおかしいね、同時にどちらの言い分にも一定の理があるね」というのはなんだかすごく思考停止なようですが、少なくとも私にとっては、いろいろなことを考えた上での結論なのです。

言論がヒートアップすると、論争空間に残るのは「両陣営」のみになり、どちらにも所属しない中立の価値は失われてゆきます。末期状態となった言論空間の末路は、中立という脱路を失った両極端同士の空虚な水掛論です。こういうことを考える中で、私ははっきりと、中立を貫くことの重要性と、難しさを痛感してしまいます(付言すると、中立のなかにも「ずるい中立」ありますね。自分の立場を明言せず、両陣営を見下し嘲笑するような特権的立場を手に入れようとする試みが透けて見えるとき、私は「ずるい中立」を感じます。しかも、私自身がそうなっているかもという危険性も常に感じているのです。)

「熱よりも光を」

英語に'More Heat than Light'という言い回しがあります。直訳すると「光よりも熱の方が多い」という意味ですが、やや意訳をすれば「啓蒙よりも白熱」でしょうか。

ロウソクは電球と比べてMore Heat than Light?

この言葉は、意見が二分されるようなある大きな議論が起こったあとに、その内容を振り返ってみると、両陣営の議論の結果もたらされた新しい知見や発想、解決の道への光明(Light)よりも、議論の中で生まれた衝突や分断、熱狂(Heat)のほうが多かった、という意味でよく使われます。

Wictionaryの例文)
So, in any overall account of the social sciences, disputes are liable to break out about what is, or is not, truly scientific research; and, too often, these disputes generate more heat than light.
結局、社会科学を総合的に評価するときに、何が真に「科学的」な研究であり、何がそうではないかについての議論が起こりがちである。そして、こうした議論は光よりも熱を生み出すことがあまりにも多い。

Toulmin,Gustavsen 'Beyond Theory: Changing Organizations Through Participation'

何が正しいのか、正しくないのか。それは、議論を終えても実際のところわからないままということの方が多いのかもしれません。環境問題をはじめとし、社会に存在するありとあらゆる大問題の最大の特徴は、そこに唯一無二の「正解」はないということです。正解のない問いを考えることがいわば人文社会科学の使命であり、正解のない問いに挑むからこそ、哲学が必要であり、理論分析も必要であり、そして何より、立場の違う人々同士で交わされる議論が大切なのだと思います。

「ラディカルさ」が幅を利かせ、中庸の価値が失われた言論世界で、想像力を欠いた空虚な言葉の応酬が繰り返され、揶揄や見下し、偏見が蔓延はびこるなかで、社会問題に対して何一つ光明をもたらさなくなった熱だけの議論が行われるとしたら、それは極めて未来のない話です。
名画を汚すことで自らの主張を世に知らしめようとするのも、そんな人々に瞬時に拒絶反応を示し頭ごなしの否定をするのも、私の好きな立場ではありません。

私は、どうせ環境問題のような重大で複雑で難解な社会的/人間的問いに取り組むのならば、より「熱よりも光を」もたらすような形で、他者と関わっていきたいと、そう思うのです。

2022/11/05


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?