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理性と感情のホーリズム

年明けのnoteで書いたが、最近は興味関心が広がって、いろいろな文献を読んだり、これまで考えてこなかったテーマについて考えたりするようになった。それもあって、インプットのほうが混沌としてきたので、そろそろアウトプットをしてきちんと整理をしたいと思った。

特に自分の中で、さまざまな新しい学びを経て変わったと思うのは「感情」というものの捉え方だと思う。コテコテのひよっこ経済学徒だった頃(もはや遥か昔)は、人間は感情を捨て去って、もっと理性的に物事を考えるべきだと素朴に信じていた。座右の銘は何かと問われたら、自慢げな顔で経済学者アルフレッド・マーシャルの「Cool head, but warm heart」と答えていたあの頃である。そういう考え方は次第になくなっていって、今や自分の中で完全に反論されつつある。

ということで、今回のテーマは「感情」だ。「合理性」の話から「感情」へと移り、経済学へと戻ってくるという、奇妙な上に長い構成だけれども、個人的には、「自分は今こういうテーマを面白いと思っている」ということをかなり素直に表現した大学院時代の自分の自己紹介みたいな文章になったのではないか?と思っている。お時間がある方にはぜひ読んでほしい。



たとえば、「感情的な人は冷静に物事を考えられない」とか、「思考重視タイプの性格と感情重視タイプの性格がある」みたいなことがよく言われます。ですが、これまでの話を踏まえると、感情と思考を対立させるのはおかしいとわかるでしょうヘビが危険だと考えられなければ、ヘビに恐怖心を感じることもできないのです

源河亨『感情の哲学 入門講義』p.40、強調原文

……以上、四つの問題はおよそ二五〇〇年ものあいだ議論されてきた。そのあいだ、感情には合理的思考と合理的選択を妨害する傾向があるとずっと仮定されてきた。私の知るところでは、感情は思考過程と意思決定過程の合理性を実際に向上させる、、、、、という議論が出てきたのは、つい最近である。
……また最近、感情は合理的意思決定に不可欠であると考える人もそれなりに登場した。状況があまりにも込み入っていて、別の行為選択肢やそれらの帰結を合理的に分析して対処することができない場面で意思決定を可能にしているのが、感情に他ならないというわけである。

ヤン・エルスター『合理性を圧倒する感情(原題:"Strong Feelings")』(染谷昌義 訳)p.189、強調原文

心は脳の信号なんだから 愛もみんなレプリカだ

ヨルシカ「レプリカント

このnoteの内容と主張

「合理性(Rationality)」「合理的(Rational)」という言葉は、学問的に用いる上でも、日常の会話で使う上でも、非常に厄介な用語だ。

私たちがある行為や考えを「合理的」であると評価する際、それはどのような意味を秘めているだろうか。

このnoteの背後にある、非常に大きな問いはこれである。最初の節では、専門的には「素朴心理学 folk psychology」と呼ばれる、一般的な「合理的」の説明図式を言語化することを試みている。ただし、この問いは大きすぎるので、この部分はあくまで自分なりのざっくりとした、そして本noteで書きたい内容に繋げる前置きとするためのまとめにすぎない。

ところで、「合理的な行為」が含んでいると想定されていそうな個々の特徴のうちの一つとして、「その行為は感情的なものではない」というものが挙げられる。「感情的にならずに、理性的に会話しましょう」みたいな、よくある感情 vs 理性の構図である。感情は、合理性を阻害する。

後半の節では、この「合理性を阻害する感情」のフレームワークと、それに対する2パターンの反論を紹介する。このnoteで主張したいのは、「理性と感情のホーリズム」、つまり、「『理性』と一般に呼ばれている心のメカニズムと、『感情』と一般に呼ばれている心のメカニズムは、それほど綺麗に切り分けられるものでも、まして互いに阻害し合うものでもない。むしろ、人間の心(意思決定)をそれ全体としてホーリスティックに見た上で、両者は非常に似たような働きをするものである」という、最近の私の中でのひとつの仮説である。

前半戦:論点の整理

簡単な整理①:素朴心理学

ドナルド・デイヴィドソンによって提起された方向に沿って論じるならば、合理的な行為とは、行為者の信念や欲求(私はこれらをまとめて彼の理由、、と呼ぶ)に対して特定の関係に立つ行為のことである。われわれは、第一に、その理由がその当の行為のための理由であり、第二に、その理由が、それが理由となっている当の行為を実際に引き起こしており、第三に、その理由が当の行為を「正しい方法で」引き起こしている、ということを要求しなければならない。

ヤン・エルスター『酸っぱい葡萄:合理性の転覆について(原題:Sour Grapes: Studies in the Subversion of Rationality)』(玉手慎太郎 訳)、p.3

私たちは、ある行為を「合理的」と評価する上で、どのような考え方を用いているだろうか?

一つの伝統的な(そして根強い)図式は、ある行為をその人物の「信念(Beliefs)」と「欲求(Desire)」に基づいて説明するというものである。

例えば、「太郎が水を飲んだ」という行為を合理的なものとして説明したい場合、以下のような説明ができる;
[太郎の信念]①自分は今、喉が渇いている ②人は水を飲むと、渇いた喉が潤う
[太郎の欲求]渇いた喉を潤したい
→[欲求と信念から導かれる行為]水を飲む

この行為者の欲求と信念を合わせて、その行為の理由(reason)と呼ぶことがある。ある行為が合理的であるための一つの条件は、その行為が理由に基づいたものである(つまり、「なんとなく」なされた行為ではない)というものである、と考えるのが、素朴心理学(folk psychology)的な説明と言える。
面白いのは、このreasonという英単語には、「理由」だけでなく、「理性」とか「道理」といった意味もあるという点だ。つまり、言葉の上でも、「合理的な(理性的な)」行為=「理由に基づいた」行為というのが我々の直感に沿っていることがよくわかる。

しかし、ある行為がその人物の欲求と信念によって理由づけられているというだけでは、合理性の条件としては弱すぎるという直感もまた、少し考えると浮かんでくるかもしれない。「ある行為がその行為者の中で理由づけられてさえいれば合理的である」といういわゆる「薄い合理性」の理論では、例えば

[信念]藁人形に誰かの名前を書き、釘を打ち付ければ、その人を殺すことができる
[欲求]ある人物を殺したい
→[行為]その人物の名前を書いた藁人形に、釘を打ち付ける

と、

[信念]拳銃で相手の脳天を撃ち抜けば、その人を殺すことができる
[欲求]ある人物を殺したい
→[行為]その人物の脳天に、拳銃を突きつけて引き金を引く

とが等しく「合理的」であるという事態が生じてしまう。この問題を(勝手に)「藁人形を本気で信じている人問題」と名付けよう。

「藁人形を本気で信じている人問題」に対処できるような、より中身のある形で合理性を肉付けする一つの方向性は、「行為者の信念/欲求と行為との整合性」による説明に、「目的-手段関係としての適切性」という視点を追加することである。「藁人形を本気で信じている人問題」の例では、どちらのケースでもともに、目的は「相手を殺す」である(物騒な例でごめんなさい)。それぞれのケースで、行為者は各々の有している[信念]に基づいて行為——藁人形に釘を打つ、脳天を撃ち抜く——をするわけだが、それらの行為は「相手を殺す」という目的を実現するための手段としてなされているとも言える。
藁人形に釘を打つことと、脳天を撃ち抜くこと、どちらが相手を殺すための手段として正しいか——ここでの「正しい」は、どちらがより「相手を殺す」という目的を達成してくれる可能性が高そうか、という意味——が、ここでは合理性の評価基準として追加される。言い換えれば、「藁人形に誰かの名前を書き、釘を打ち付ければ、その人を殺すことができる」という信念と、「拳銃で相手の脳天を撃ち抜けば、その人を殺すことができる」という信念、どちらが目的を達成するためにより適切な手段をもたらしてくれそうな洗練された信念か、という評価もまた、ある行為を素朴心理学的に説明する際の合理性の評価基準となるであろう。

私たちは、知識の獲得、思考、推論のような過程を通じて、信念を形成・洗練する。藁人形に釘を打つことが相手を殺す最良の方法だと信じている人は、おそらく、単純に、それ以外(以上)の相手を殺すための方法を知らないのだろう。「多くの情報を有していて、多くのことを考え、適切な手段を導くことができるように形成された洗練された信念に基づいて、自らの目的(欲求)に対して適切な手段となる行為をとること」、これがここまでの説明で描き出された「合理性」の定義と言える(いわゆる、「目的合理性」という専門用語の定義とこの説明はだいたい一致する)。

もっとも、例えば、「信念の洗練とは、そもそも何か?」とか、「『適切な情報を集める』という目的のための適切な手段はなにか?という質問に答えるためには、目的合理性による説明が必要となる。つまり、目的合理性の中身を説明するためには目的合理性が必要という循環論法に陥る」とか、より込み入った話題がさらにつきまとうことは想像に難くない。一旦、そういう面倒な論点はスルーして先に進むことにしたい。

ただし、一つだけ言及しておかなければならないとしたら、それは「素朴心理学的な合理性の説明において、欲求や目的の内容自体は(基本的には)不問とされる」という点である。

つまり、「誰かを殺す」という目的のために藁人形に釘を打つことが良いのか良くないのかという基準は、それが「合理的」かどうかという話となりうるが、「誰かを殺す」という目的や、「誰かを殺したい」という欲求を持つことがそもそも良いのか良くないのかという基準を、「合理性」に求めることは一般的にはできないということだ。

かつての経済学では、しばしば人間は自己利益を最大化することを目的として行動する利己的な「合理的経済人ホモ・エコノミクス」であるという仮定が用いられてきた(cf. この点を政治思想の専門家が批判した新書)。ゲーム理論などの分野では、これに近い仮定は現在でも用いられる(cf. 私の過去のnote)。
このような仮定は、個人の行為の「目的」にも限定をしているという意味で、素朴心理学の観点から見ても、「合理性」をさらに強く(狭く)定義しているということがわかる。時折(特に経済学を外在的に批判する著作に多い傾向として)、「経済学は自己利益の最大化を合理性の定義にしている」という誤解があるが、私はそれは間違いだと思う。より適切には、合理性に関する素朴心理学的な理解に当てはめて、利益の追求という合理的行為のいちヴァージョンを形式的に分析することを試みていたのが、過去の「合理的経済人ホモ・エコノミクス」的ミクロ経済学理論なのだろう。

蛇足

簡単な整理②:記述的議論と規範的議論

この小節は、用語の定義だけで一瞬で終わる。それでも、後半戦の議論で、論点を混同してしまわないためには、ここでしっかりと二つの言葉を整理しておく必要があるように思う。

それは、「規範的な」議論と「記述的な」議論の線引きである。

以降では、「規範的な」を、「何が/どんなものが”正しい”のか”正しくない”のかのルールを定める話として」といった意味で用いる。つまり、「べき」の議論だ。「消費税を5%に下げるべき」「人間は清く正しく美しく生きるべき」「寒い日は厚着をするべき」、これらはすべて規範的な主張である。

記述的な」は、対照的に、「何が/どんな物事が実際に生じているのかの話として」という意味で用いる。つまり、「である」の議論だ。「2024年1月現在、日本の消費税は10%である」「ほとんどの人間は清く正しく美しく生きていない」「気温が10度を下回る日の渋谷にはコートを着ている人が多い」、これらはすべて記述的な主張である。

この二つの区別に際して、よく持ち出される議論は、「ヒュームのギロチン」、すなわち「『である』から『べき』を導き出すことはできない」というものである。「である」から「べき」を引き出したくなる誘惑に負けると、多くの議論は一種の自然主義的誤謬に陥ってしまう。「ほとんどの人間は清く正しく美しく生きていない」から「人間は清く正しく美しく生きないべき」は導き出せない。同様に、「ライオンの父親は弱い子どもを殺してしまう」から「人間の父親も劣等な子どもはネグレクトするべき」を導き出すことも、「多くの人が安楽死を望んでいる」から「安楽死を合法化するべき」を導き出すこともできない。

「合理性」とは、徹頭徹尾規範的な概念だ。どのような行為が「合理的か」のルールを論じているのだから、その定義上、議論では常に規範的な場が戦場になる。

しかし、その議論で持ち出される話題の多くは記述的な根拠だ。「藁人形に釘を打っても相手は死なない」とか「⚪︎⚪︎という選択は××という結末をもたらす」とか、自分たちの考える規範的な合理性の正当性を主張するために、記述的な論述から、その合理性の規範に基づいて「合理的な」行為が良い結果をもたらすということを証明するという形式が、今後しばしば登場する。そして、先の文章の中で用いた「良い」という単語には、また規範的な主張が含まれてしまっている。

といった具合に、この二つの区別は結構込み入っている。「ヒュームのギロチン」よろしく、バッサリと切り分けることは(特に規範の次元で議論する場合には)難しくなる。自然主義的誤謬に陥らないように注意を払いながら、後半戦はこの二つの次元をうまく使い分けていきたい。

後半戦:合理的選択と感情

このnoteのテーマは「感情」だ。私たちの心は日々、選択(意思決定)を繰り返して生活をしている。同時に、私たちの心には、「感情」という言葉で言い表されるような現象を引き起こすメカニズムも備わっている。選択をする機能と、感情を引き起こす機能、人間の心にはこの二つの機能が備わっているということを認めるとしたら、両者はどのような関係性にあるのだろうか。

伝統的な見解:「合理性を圧倒する感情」

……合理的な、、、、選択を行うことができるのは唯一人間だけであり、このことは感情と嗜癖的渇望感にとって重要な意味を持っている。しかしながら、人間であっても、感情や渇望感がときにあまりにも強力なため、合理的選択が妨げられ、場合によっては選択さえもできなくなってしまうことがあるのではないだろうか。感情や嗜癖があまりにも強力であるとき、感情や嗜癖による衝動は、合理的な比較や選択の余地をほとんど与えない、合理性を圧倒するまでの質を備えているように思われる。

ヤン・エルスター『合理性を圧倒する感情(原題:"Strong Feelings")』(染谷昌義 訳)p.14、強調原文

伝統的な理解は、「感情は合理的な選択を阻害する」というモデルだろう。「頭を冷やして考える」という言葉があるように、感情に影響されず、冷静に、できるだけ多くの選択肢を比較衡量して選択を行う人物——自分の中にあるより多くの信念を検索することのできる人物——の方が、自分の目的ないし欲求を最大限実現することができる行為にたどりつきやすい。「合理的」な人物とは、「感情的でない」人物のことだ。

この見解が正しいとして、では素朴心理学的なフレームワークにおいて、感情は合理的選択を行なってから合理的な行為をするまでの過程のどの部分に影響するものなのだろうか。実は、この点は、かなり微妙な(そしてそれゆえに、素朴心理学によって感情の非合理性を説明することのひとつの困難さを示唆しもする)問題であるように思われる。

一つ目の解釈は、[信念]+[欲求][行為] の→の部分を阻害するというものである。例えば、「私は友人たちとラーメン屋に行き、ラーメンを注文した。空腹だったので本当は大盛りにしたいと思ったが、友人は誰も大盛りにしていないのを見て、恥ずかしいと思い自分も普通盛りを注文した」というケースを想像してみる。
このとき、「私」は明確に、「大盛りを注文する」という行為が自身の欲求(「空腹なので、たくさん食べたい」)と信念(「大盛りを注文することで、普通盛りを注文した場合よりも自分は満足するだろう」)に沿って合理的であることを認識できている。しかしながら、恥ずかしいという感情が、これらの理由に沿って導き出された合理的な選択を実際の行為に移す過程を阻害する。
これは、「アクラシア」(意志薄弱)と呼ばれる現象を、感情が引き起こしていると言い換えることができる。お酒をこれ以上飲まないことが、自分にとって合理的だとわかっている。「わかっているけど、やめられない」。このような、「合理的選択には成功していても、合理的行為に失敗する」ケースの一つの原因が、感情である。言い換えれば、感情は合理的な選択をするという心の中でのメカニズムは阻害せず、それを行為に移す時に初めて干渉する。「感情的な」人でも、頭の中で合理的に選択をするところまでは本当はできているのだ。これが第一の解釈である。

二つ目の解釈は、[信念]+[欲求]→[行為]の[信念]の検索の部分を阻害するというものである。「私は、重要な相手との商談をしている。しかし、その商談相手にひどく差別的な暴言を吐かれてしまい、私は相手を殴ってしまった」という(極端な)ケースを想像してみる。
私の欲求は、「商談を成功させたい」というものであった。冷静な状態ならば、私は「商談相手を殴ったら、その商談は失敗するだろう」という知識を信念として有している。では、なぜ私は「商談を成功させる」という目的にとって非合理的である「相手を殴る」という行為をしてしまったのか。それは、怒りという感情によって、「商談相手を殴ったら、その商談は失敗するだろう」という知識をいっとき忘れてしまったから(つまり、信念を検索できなかったから)である。
これは、「怒りで我を忘れる」とか「緊張で頭が真っ白になる」といった、感情の作用を説明する表現が存在することを踏まえても非常にわかりやすい解釈である。このような極端な(つまり、信念を完全に検索できなくなってしまう)ケースを除いても、「もう少し冷静になれよ」といった表現の含意は、「もう少し冷静になって考えてみろよ。お前の中にある信念を全て用いて考えたら、合理的な選択はそうじゃないだろ?」という意味でだいたい納得がいくことを考えれば、この「信念の検索を感情が阻害する」という現象は日々起こっているような気がする。これが、第二の解釈である。

三つ目の解釈は、[信念]+[欲求]→[行為]の[欲求]の形成に感情が作用するという(当たり前の)解釈である。再び、「商談相手を殴ってしまった」というケースを想像してみる。
「商談相手を殴ってしまった」ケースにおける「怒り」という感情の働きは、先ほどの「信念の検索を阻害した」という解釈以外にももう一つ考えられ得る;
その商談相手に差別的な暴言を吐かれるまでは、私の[欲求]は「商談を成功させたい」というものだった。しかし、差別的な暴言を吐かれたことで、私のなかで「商談を成功させたい」という欲求を上回る「こいつをぶん殴りたい」という強い欲求が生じた。そして、私は「拳を固く握りしめ、相手に向かって素早く振れば、私は相手を殴ることができる」という[信念]も持ち合わせていた。だから、私は相手を殴るという[行為]を合理的に選択した。
ラーメン屋の注文も、同じような説明で再解釈できる。恥ずかしいと思った時点で、私の欲求は、「お腹いっぱい食べたい」から「恥をかかないような注文をしたい」に変わったのである。
この、感情が欲求を書き換えたという第三の解釈は、極めて妥当であると同時に、一つの大きな懸念を有している。それは、この説明は、怒りに強く影響されて商談相手を殴るとか、恥ずかしさに強く影響されて自分にとっては不満足な注文をするといった行為を、(欲求と信念という理由に正しく基づいているという意味で)「合理的な」ものとしてしまう。これは、「衝動的な」行為は非合理的である(「衝動的な」行為を非合理的としてくれるような、合理性の定義を持ちたい)という私たちの直感に反しているような気がするし、そもそも、感情は非合理的な行為をもたらすという「伝統的な」見解に全く味方しない。

また、後悔という厄介な問題も絡んでくるかもしれない。「商談相手を殴ってしまった」という表現のように、私は感情によって形成された強い欲求に従って行為したことを、後から「感情任せの」行為だったと悔いるかもしれない。感情とは厳密には違うが似ている例は、「嗜癖 Addiction」(依存症)である。アルコール依存症の人は、酒を前にすると「飲酒をしたい」という強い欲求に駆られる。しかし、大抵の場合、後から「飲まなければよかった」と後悔をする。彼は後悔をしているのだから、仮に飲酒をしてしまったとしても、[信念]自分の前にある飲み物はアルコール飲料である + [欲求]アルコール依存症を治したい → [行為]お酒を飲まない という図式が、その人にとっては本当は理想(つまり「合理的」)であるはずだと推察できるが、このような嗜癖の犠牲者の非合理性も、第三の解釈は扱えない。「感情は欲求を形成する」という考え方は非常に当たり前である。当たり前すぎて、合理的な行為とは何か、感情はそれをどう阻害するのかという規範的な問題を扱う上では、無意味であるように思われる。

(と、ここでは誤魔化しておく。でも、実のところ結構重要なテーマでもある気がする。「感情は欲求を形成する」をもっと強く解釈して「欲求は感情がないと形成されない」といった場合、合理的選択を行うためには[欲求]が必要、[欲求]は形成されるためには感情が必要、つまり合理的であるためには感情は不可欠、という、「感情が合理性を阻害する」という伝統的な見解に対する強烈な反論となりうる。これは、後に書く「ソマティック・マーカー」仮説とも関係する話題である。)

第三の解釈を救い出せそうなひとつのアイディアは、「感情が合理性にどう影響するか」の解釈ではなく、そもそも「合理性」の解釈を変更することにある。前の節の最後に、「素朴心理学的な合理性は欲求の内容は不問にする」ということを補足したことを思い出そう。これを取り外す、つまり客観的合理性の概念を用いることが、感情は非合理性をもたらすということを第三の解釈が示すためには、不可欠な前提となる。

客観的に、「私」にとって合理的な行為(すなわち「正解」)とは、大盛りを頼むことだし、怒りを堪えて商談を進めることだし、目の前にある酒に手を出さないことである。恥をかかないような注文をしたい、相手を殴ってやりたい、酒を飲みたい——これらの欲求は全て、客観的に見れば「間違った欲求」である。だから、後の自分は過去の自分を客観視して、「あんなことをしなければよかった」「あのときあんな欲求に従わなければよかった」と後悔する。

これは、今度は客観的合理性(「客観的に正しい欲求」)という概念の怪しさという新たな問題をもたらすことは想像に難くない。話題が逸れすぎるので、簡単にしか触れられないが、ある欲求の「客観的な正しさ」なんて誰が決められるのだろう?人によっては、そんな失礼な商談相手なんてぶん殴ってやった方が、侮辱に忍従して商談をうまく進めることよりよっぽど正しい行為だと考えるかもしれない。将来の自分が「お酒を飲まない方が良かった」と後悔するからといって、それは現在の自分の「お酒を飲みたい」という強い欲求が誤ったものであることの根拠にはならない。将来の自分が後悔するかもしれない?だからどうした!少なくとも今の自分にとっては、目の前にある酒を飲んだ方が幸福なのだ!自分の心はそう言っている!今の自分の心に今の自分が従うことの、いったい何が間違っているというのだろうか?

新しい見解:合理性を支える感情

……以上からすると、感情による価値の判定は、合理的に行動するためになくてはならないものだと考えられるでしょう。そうであるなら、感情と理性は対立するどころか、理性的であるためには感情が必要とされると言えるでしょう。

源河亨『感情の哲学 入門講義』p.40、強調原文

人間の意思決定は, 規範モデルのように理性だけでおこなわれているわけではない. むしろ無意識が主役であり, 無意識からのシグナルが感情となって意識に押し寄せてくる. 意識的な理性は自分の意思決定に一貫した説明をつけたいが, 無意識に直接アクセスする術を持たないし, 感情を事後的に解釈してもうまく整理できないことが多く, いきおい感情を非合理的とみなしてしまう.  それが感情と理性の対立の図式ではないだろうか. 意思決定に及ぼす影響力は無意識の方が強いが, 意識の力が上回ることもある. ただしその場合も, 意識は無意識と感情を適切に理解していないので, 感情を優先すべき状況なのに押さえつけてしまうことがある. 経営的な意思決定は日常の意思決定に比べて理性の介在する余地が大きいと考えられるが, 感情を否定するのでなく, 感情を理解し感情と折り合いをつけることで, より生産的な意思決定が可能となるだろう. 

長瀬勝彦「感情と理性の折り合いとしての意思決定」『組織科学』Vol. 41, No. 4, p.25

上の三つのうちのどの解釈をとっても(そして三つのうち複数を組み合わせたり、三つ以外の何らかの解釈を取ったとしても)、感情の非合理性を主張する”伝統的な”見解は、少なくとも非常に私たちの素朴な直感とマッチしているように思われる。

一つのイメージは、非常に情報処理能力と計算機能に長けたコンピューター(人工知能でもよい)である。コンピューターのような機械には感情がない。感情がないからこそ、”冷静に”情報を処理し、正確なアウトプットを出すことができる。「合理的な」人間も、コンピューターのように、感情に影響されることなく、最大限情報を処理し、適切に行為するような主体であるはずだ。

このような見解をひっくり返すのが、むしろ「合理性」には感情が必須であるというふうに考える新しい心理学の研究プログラムである。

次のような作り話を想像してみよう。

あるロボット「R1」が開発された。R1に課されている命令はただ一つ:「生存しなさい」というものである。R1の生存のためには、定期的に新しいバッテリーを手に入れてバッテリー交換をしないといけない。
ある日R1は、設計者のイタズラで、予備のバッテリーが、時限爆弾の仕掛けられた部屋に隠されていることを知った。部屋の中に入ると、R1は部屋には台車があり、バッテリーはその台車の上にあることを認識した。R1は、「PULLOUT(台車、部屋)」と呼ぶある行動をt秒以内にとれば、爆弾が爆発する前にバッテリーを部屋から取り出すことができるという仮説を立て、実行することに成功した。しかし残念なことに、爆弾は台車の上に仕掛けられていた。かわいそうなR1は爆弾が台車の上にあることは認識していたが、台車をPULLOUTすると、電池と一緒に爆弾も出てくることは知らなかった(インプットされていなかった)のだ。
この結果を踏まえて、設計者は改良版のロボット「R1D1」を開発した。R1D1は、ある行為の計画(例えば「バッテリーと爆弾のついた台車を部屋から引っ張り出す」)を立てる際に、その行為の意図された意味合い(「バッテリーを部屋から出す」)だけでなく、その副作用に関する意味合い(「爆弾も部屋から出てきてしまう」)も認識できるように、目に入った情報に関連するあらゆる帰納的推論を行えるように設計された。彼らはR1D1をR1が陥ったのと同じ状況に置き、R1D1もPULLOUT(台車、部屋、t秒以内)というアイデアに思い当たると、設計通り、その行為の意味を考え始めた。「台車を部屋から引き出しても部屋の壁の色は変わらない」という推論を終え、さらに「台車を引き出せば台車の車輪が台車についている車輪の数よりも多く回転する」という命題の証明に取りかかろうとしていたとき、爆弾が爆発した。もちろん、台車を部屋から出したところで部屋の壁が変わるわけがないし、バッテリーを安全に引き出すために台車の車輪の回転数は関係がない。しかし、R1D1はすべての情報を計算するように設計されている。かわいそうなR1D1は、「台車を部屋から引き出すと、同時に爆弾もついてきて爆発する」ことに思いいたる前に、時間切れになってしまったのだ。
再び設計者は、さらなる改良版のロボット「R2D1」を開発した。R2D1は、R1D1のようにあらゆる情報を考慮の対象に入れることができると同時に、関連する情報と無関係な情報の違いもインプットされており、無関係な情報は無視するようになって。R2D1が、R1とR1D1を破壊したいつものテストにかけられたとき、設計者は、R2D1がただ部屋の前でたたずんでいる姿を発見した。設計者は「何かしろ!」と叫んだ。するとR2D1はこう答えた:「今しているところです」。「私は今、無関係だと判断した何千もの情報をせっせと無視しています。無関係な命題を見つけるとすぐに、私はそれを無視しなければならない命題のリストに入れ、そして......」。そうこうしているうちに、爆弾は爆発した。
結局、「台車から爆弾だけを下ろして、部屋から引き出す」という単純な作業を当たり前にできる(スター・ウォーズの)R2D2のような鋭い洞察力とリアルタイムの機敏さを備えたロボットを、設計者は作ることができなかった。

Dennett, Daniel "Cognitive Wheels: The Frame Problem of AI." In Christopher Hookway, ed., Minds, Machines and Evolution: Philosophical Studies, pp. 129-151. Cambridge: Cambridge University Press (1984), ※適宜省略、改訂、補足をしたので直訳ではないです

これは、「フレーム問題(Frame Problem)」と呼ばれるテーマである。限られた情報や作業しか扱えないロボット(R1)は、未知の問題を解くことができない。しかし、あらゆる情報を扱えるロボット(R1D1)は、無限大の情報を処理しなければならず、これもまた問題を解くことができない。あらゆる情報を優先順位付きで扱えるロボット(R2D1)は、あらゆる情報に優先順位をつけるという過程で結局無限大の情報に突き当たってしまう。R2D2を作り出すためには、「あらゆる」の部分にどう対処するかという問題、つまり、必要な情報のみを用いて推論するためにインプットを適切に制限(=フレーミング)する機能をどう作り出すか?という問題に踏み込まなければならないのである。

AI開発に関しては素人なので、そもそもあまり踏み込みたくないが、おそらくAIやロボットの開発という点では、「フレーム問題」は解決されつつあるのではないかと(素人目に)思っている(おそらく、R2D1をより”うまく”作る方向性で概ね技術が発展しているのだろう)し、「AIがどうやってフレーム問題を解決することができるか」とか「フレーム問題が解決されないかぎり完全なAIは生まれない」とかを論じる意図はこのnoteにはない。「フレーム問題」を取り上げたのは、この話を叩き台にして、「では人間はこのフレーム問題{を/に}{どう解くか/解いているか/なぜ悩まされないのか}」を論じたいからである。

補足

ところで、人間はなぜか、このフレーム問題に悩まされることがない。(たまに「情報過多」によって認知がバグることはあると思うが、まあそれは「フレーム問題」とは厳密には違う現象だろう)。

これまでの説明図式に照らせば、人間は、「爆弾の乗った台車を部屋から引き出すと自分は死ぬ」という[信念]が、「台車を部屋から引き出しても部屋の壁の色は変わらない」という[信念]よりも重要であるという認識を自然にすることができる。だから、自身にとって合理的な行為を導出する過程で、「部屋の壁の色」という情報はそもそもフレームの外に追いやられ、重要な情報——台車、爆弾、バッテリー、起爆までの残り時間——のみが認識されるようになっている。

なぜだろうか?その答えの一つが、「感情」の果たす役割である。

ダマシオは(「フレーム問題」への答えとしてではないが)、感情の役割にかんする「ソマティック・マーカー仮説」というものを提示している。

爆弾を目の前にして、私たちは「恐怖」という感情を覚えるだろう。この恐怖心それ自体が、私たちの心から、自然と「部屋の壁の色」や「車輪の回転数」といった「どうでもいい情報」を消去させ、重要な情報のみを判定させるように機能する。感情は、私たちが情報や選択肢を絞り込む際の身体的なソマティック目印マーカーとして、進化的に身につけられきた機能なのだ。

ダマシオは著作のなかで、エリオット(仮名)という患者の例を紹介している。エリオットは脳腫瘍とその後の手術によって、脳の感情を司る部位を損傷し、悲しんだり、怒ったりすることができなくなってしまった。それ以外には、知覚や記憶、知識、IQなどには問題はなく、彼は社会復帰を果たしたのだが、手術前のエリオットと手術後のエリオットには決定的な変化があった:彼は、合理的な意思決定や行動ができなくなっていたのだ。彼は職場ではまったく仕事のできない無能として解雇され、破産し、無計画な結婚と離婚を経験した。

ダマシオはこのエリオットの例が、ソマティック・マーカー仮説の一つの根拠であると主張している。ソマティック・マーカー仮説がどの程度まで妥当か、特に、選択肢や情報の絞り込みフレーミングや優先順位付けが、感情が意思決定に対して果たす唯一の役割なのかについては、まだ微妙だろうというのが個人的な感想であるが、少なくとも、感情がなければ人間は(R1D1のように)ろくに意思決定ができないだろうという点では、ソマティック・マーカー仮説の主張は極めて妥当であるように思われる。感情は、合理性を阻害するどころか、合理的な意思決定のためには必要不可欠なのだ。

ところで、ソマティック・マーカー仮説を受け入れたとして、実は二つ解釈があるような気がする。これは、メモしておいてもいい視点かもしれない。

二つの解釈は、おおよそ以下のように整理できるだろう。

①感情は合理的選択には不可欠である(つまり、ロボットが「合理的」であるためにも、感情か、人間の”感情”に類する役割を果たすプログラムが必要だ。R1D1は「非合理的」である。)
②感情はもっとも合理的な選択に近い選択を人間がするためには不可欠である(つまり、理想的な「合理性」には感情は必要ないかもしれない。R1D1は「合理的」だが、ただ意思決定が遅いだけだ)

例えば、超高速で”全ての”情報を処理できる神のごときロボット「R1D1-GOD」が現れたら、それは合理的なのだろうか?

一つ目の回答は、R1D1-GODは非合理的だというものである。R1D1-GODはとてつもない量の情報を処理できるという意味で優れているが、目の前の問題に対してはどう考えても無駄にすぎない部屋の壁の色や、日本にあるセブンイレブンの店舗数のこともすべて思考してしまっているという意味で、ムダが多すぎる。思考の倹約性も、「合理性」の要件である。

二つ目の回答は、R1D1-GODは合理的だ(そして、より強い主張としてなんなら、爆死したという結果を踏まえてもR1D1も合理的だった)というものである。合理的な思考とは、可能な限り多くの情報を用いてより多くの信念を考慮し、それらを用いて正確に計算をすること、すなわち熟慮である(藁人形を打ち付けることしか相手を殺すための知識ないし[信念]を持ち得なかった人よりも、銃を撃つことを思いついた人の方が合理的だ、という最初の方の議論を思い出してほしい)。
人間だって、本当は感情に頼らずに、全てを考えることの方が望ましい(つまり、規範的には全ての情報を考慮するべきである)。しかし、人間にはそのような超常的な情報処理能力、絶対に間違えないし逃げ遅れない思考プロセスは不可能なので、記述的には、人間は感情をソマティック・マーカーとして利用して意思決定を簡略化することで生き延びているのである

個人的には、一つ目の立場を私は支持する。 倹約性も合理性の要件として、規範的な次元でも用いてよいだろう、というのが私の主張だ。

心の哲学におけるダマシオのソマティック・マーカー仮説と似ているが別の分野での議論として、ドイツの心理学者ゲルト・ギーゲレンツァーによる行動経済学への批判を紹介したい。

ギーゲレンツァーと行動経済学者との間で意見が分かれたのが、人間の「ヒューリスティック」の利用は合理的か?という規範的な問題である。

有名な「リンダ問題」を考えてみよう(実は、この「リンダ問題」の考案者こそ、「プロスペクト理論」を提唱し行動経済学の祖となったエイモス・トヴェルスキーとダニエル・カーネマンである)。

リンダは31才、独身、率直な性格で、とても聡明である。大学では哲学を専攻した。学生時代には、差別や社会正義といった問題に深く関心を持ち、反核デモにも参加した。
どちらの可能性がより高いか?
1. リンダは銀行窓口係である
2. リンダは銀行窓口係で、フェミニスト運動に参加している

実験によると、多くの人は、2.の方が可能性が高いと選んでしまう。しかし、正解は1.である(例えば、「サイコロを1回振って6が出る可能性」が「サイコロを2回振って、1回目に6が出て、2回目に1が出る可能性」より低いことはあり得ない。それと同じ理屈)。

カーネマンとトヴェルスキーによると、このような間違いが生じやすいのは、人間が「ヒューリスティック」と呼ばれる思考のショート・カットを用いているためである。私たちは、複雑な問題に答える際、熟考ではなく、厳密な思考ではないものの正解を導きやすいと思われる簡単な思考法で答えを出そうとする。

例えばリンダ問題では、回答者は論理的な確率計算ではなく、「代表性ヒューリスティック」というものを用いていると考えられる。「独身、聡明、哲学専攻、社会正義への関心…」という特徴が、「フェミニスト運動の参加者」に典型的な特徴として結びつけられるから、「ああ、リンダはフェミニストだ!」という答えを素早く、しかし過って導き出してしまうのである。

カーネマンとトヴェルスキー、および彼らに続く行動経済学者は、このようなヒューリスティックの利用を非合理性と結びつける。本当は(つまり、規範的には)論理的に推論をした方が良いのだが、人はヒューリスティックのような思考の簡略化を使って、時に間違いをもたらしうる推論をしてしまう。人間の思考法には悪い”クセ”があり、有名な行動経済学の本のタイトルを借りれば、「予想通りに不合理」なのだ!(「リンダ問題」が、別名「合接の誤謬」とも呼ばれていることからもこのニュアンスは伝わるだろう)。

この行動経済学の規範と記述の切り分け(人間の記述的な意思決定の特徴は、規範的な”理想”を達成できていない!)に批判を加えたのが、ギーゲレンツァーら心理学者の「ヒューリスティックの規範的研究」プログラム、すなわち、ヒューリスティックの利用は規範的にも合理的であるという主張である(日本語に訳されてる文献だと https://amzn.asia/d/2G1gaCC )。

ギーゲレンツァーは2004年の論文で、「捕球ロボット」という比喩を用いてこの立場を説明をしている。

野球のフライ(飛球)を捕球するロボットを、三つのグループが開発することになった。第一のグループが作ったのは、フライの発射位置、初速や投射角さらには風速や風向き等、関連するあらゆる情報を考慮し落下地点を計算する「最適化ロボット」である(この例は、どこか「フレーム問題」のR1D1を想起させる)。しかし、このロボットは、飛球が飛んできてから膨大な量の計算をするため、時間がかかりすぎて落下地点を予測し捕球をすることができない。
そこで、実際の選手の認知メカニズムを研究した第二の開発チーム(これが、行動経済学者の比喩)は、人間の野球選手の多くが楽観主義バイアスという認知バイアスによって落下地点と自分との距離を過小評価してしまう傾向にあることを明らかにした。しかしこの開発チームは人間には最適化ロボットのような計算ができない、つまり人間は間違っているということを明らかにしただけで、最適化ロボットに代わるロボットを開発することはできなかった。
最後に、第三のチーム(これが、ギーゲレンツァーらの比喩)は、優秀なプロ野球選手はフライの落下地点に向かって走る際、視線をボールに固定したまま視線とボールの間の角度が一定になるように走る速度を調整するという技術(注視ヒューリスティック)を用いていることを発見した。彼らだけが、落下地点を予測計算するのではなくこのヒューリスティックを用いて落下地点まで走行する、代替的なロボットを開発するという成果を生みだすことに成功する。

Gigerenzer, Gerd, (2004) “Striking a Blow for Sanity in Theories of Rationality,” in Augier, Mie and James G March (ed.), Models of a man: Essays in memory of Herbert A. Simon, Cambridge: MIT Press, pp. 389-409, ※適宜省略、改訂、補足をしたので直訳ではないです 

つまり、こういうことだ:時々間違えることはあっても、高い確率で正解を出すことのできる良いヒューリスティックを用いているという意味で、ヒューリスティックを用いて素早く思考をすることのできる人物は、ごちゃごちゃと「合理的」に膨大な計算を行おうとする人よりも、はるかに合理的である。現実世界では、生物種は生存のために、正しい(生存確率を高める)だけではなく、素早く(fast)、倹約的な(frugal)意思決定をしなければならない。ヒューリスティックは、まさに、素早く、倹約的に、最善ではなくても良い選択肢を選び出すことを可能にしてくれるという意味で、「合理的」なのだ。

代表性ヒューリスティックについても、たとえば「たくさん食べ物が採集できるエサ場を見つける」などの生存場面において、遥か昔の人間が良い餌場の典型的な特徴(近くに川がある、とか)を素早く検索し判断するために進化させた認知の”クセ”なのかもしれず、それがリンダ問題のような形式的な論理問題においては「間違い」をもたらすからといって、一概に「間違っている」とは言えないかもしれない。

ギーゲレンツァーらは、おそらく、仮に「最適化ロボット」が完全に高性能化して、超高速で全ての情報を演算し高い確率で捕球に成功するようになったとしても、倹約性の観点から「注視ヒューリスティック・ロボット」のほうが優れていると主張するだろう(先に述べた、ソマッティック・マーカー仮説の「二つ目の解釈」とも重なる)。この点については、間違いなく議論が分かれるといってよい。「最適化ロボット」の方が多くの情報を処理できて、しかもよりうまく捕球をすることができる(進化論的に、より高い生存確率をもたらすことができることの比喩)のに、倹約性の観点のみから「注視ヒューリスティック・ロボット」のほうが優れていると主張するのは、よく言っても逆説的パラドキシカルだし、悪く言えば破茶滅茶だ。結局のところ、ヒューリスティックの合理性に関するギーゲレンツァーらの主張は「生存にとって優れた意思決定が、良い意思決定だ」という進化論的な正当化に、良くも悪くも縛られている。

だがしかし、個人的には、それでもギーゲレンツァーらの方向性を支持したい。人間は神ではない。「感情」や「直感」や「ヒューリスティック」を、規範的な合理性を阻害するものではなく、”よりよい意思決定”を限られた認知的コストの中で達成するために、人間がうまく利用しているものとして規範的にも評価できるような「合理性」の概念の方がより実り多いだろうという、(これまでの記述の長さからしてはかなり素朴な)感想で、この小節は終わりにしよう。

もっとも、これまでの長い議論でとらえようとしてきたものは、結局、規範的な「合理性」という言葉の中身をめぐる用語論的なterminological口喧嘩quibbleにすぎないかもしれない、というコメントも、本節の最後に付け足したい。結局、ギーゲレンツァーもダマシオも、(「リンダ問題」のような)意思決定には「正解」が存在するという点では、規範的合理主義者と一致しているとも言える。両者の違いは、「『正解』にたどりつくためにどれぐらい/どのように頑張った人に『合理性』の称号を与えれば良いと思いますか?」という同じ問題について、ただ自分たちの定義をぶつけ合っているにすぎないというシニカルな見方も、また可能であるということだ。規範的な議論には、得てして「どうでもいい水掛け論」に陥ってしまう危険性がつきまとう。

蛇足

もう一つの見解:感情の合理性

人間は基本的に利己的であると、現代の行動科学者たちは考えている。行動は物質的な報酬に左右されるとか、自己利益を見逃す生物は自然選択によって排除されると、生物学者は主張している。物質的報酬が学習で大きな役割を果たすことに心理学者は目を向ける。経済学者もまた、ビジネスの世界だけでなく個人関係のネットワークにおいても、行動を説明したり予測するのに利己主義の観点が有効だとしている。
しかし「自己を最優先する」という誇張された人間像は、多くの人々にあてはまらない。匿名で公共放送や慈善事業に寄付をしたり、見ず知らずの白血病患者に骨髄を提供したりする人もいる。正義のために労苦と出費を惜しまないこともある。燃えさかる建物の中から人を救い出したり、溺れかけた人を助けるために凍てついた川に飛び込んだりもする。仲間を救うために手榴弾の上に体を投げ出す兵士もいる。現代の自己利益追求理論のレンズを通して見れば、こういった人間は、四角い軌道を回る惑星と同じように奇異に映るだろう。
私はこの本の中で、人間の高尚な行動傾向が、物質世界の非情な力の中を生き延びてきただけではなく、その力そのものによって育まれてきた可能性のあることを、経済学のアイデアを用いて説明するつもりである。このアイデアは簡単なパラドクスにもとづいている。意識的に自己利益を追求しようとすると、かえってうまくいかなくなるというパラドクスである。自然に振る舞おうとするとかえって自然に振る舞えなくなるのは誰でも知っている。それと同じように、自己利益ばかり追求する人は結局失敗する運命にある。

R.H.フランク『オデッセウスの鎖:適応プログラムとしての感情(原題:Passions Within Reason: The Strategic Role of the Emotions)』山岸敏男 監訳, p.i-ii、協調は引用者

前節では、心理学(や心の哲学)における「合理的選択を支える感情」の考え方を見てきた。

このnoteの最後のフィールドは、経済学である。経済学では、人間は少なくとも「合理的な主体」、より強くは「合理的に自己利益を追求する主体(合理的経済人)」であると想定されてきた。

例えば、「最後通牒ゲーム」というゲームに自分が参加していると想像してみる。

最後通牒ゲームは、二人のプレイヤー 「提案者」 と「応答者」によってプレイされる。二人の前には、1万円が置いてあるとする。ゲームは、以下の手順で進められる。
①提案者が、1万円をどのような比率で分け合うかを決め、提案する(1円単位でOK。つまり、(提案者の得る額, 応答者の得る額)=(10000, 0)から(0, 10000)までの10001通りの提案が可能)
②応答者が、①の提案に受諾するか、破棄するかを決定する
③受諾した場合、①で提案された通りの比率で1万円が分配される。破棄された場合、両者とも1円も得ることはできない。

この「最後通牒ゲーム」の「合理的」な結末は、「提案者が9999円を、応答者が1円を得る」というものになる。

なぜなら、(③→②→①の順で考えて、)③応答者は、提案の破棄を選べば自分は0円しか得られないことを知っている → ②よって、応答者は「提案者が9999円、応答者が1円を得る」という提案でも、1円でももらえた方が0円よりはマシと考え、受諾するだろう → ①このことを提案者は知っているので、自分の利益が最大になる「提案者が9999円、応答者が1円」という提案をするはずである という、両者の(「自己利益を最大化する」という意味での)「合理性」を前提とした推論ができるためである。ゲーム理論的に言えば、「提案者が9999円、応答者が1円」という結末はこの最後通牒ゲームの唯一のナッシュ均衡である。

少し噛み砕けば、提案者が応答者に突きつける分け前は「最後通牒」ということになる。提案者は、応答者がこの最後通牒を拒否することはできないとわかっているから、可能な限り足元を見た提案をした方が合理的である。

例えば、「提案者」が圧倒的軍事力を持った超大国で、「応答者」が弱小国家という状況を想像するとこのネーミングの意味がわかりやすい。強国がとんでもない不平等条約の締結を求めて弱小国に最後通牒を送りつけている。弱国は、この不平等条約を拒否すれば戦争(つまり、滅亡)となるので、涙を飲んで承認するしかない。そして、強国はそれをわかっているので、不平等な条項をてんこ盛りにできる。

蛇足

最後通牒ゲームは行動経済学者や進化心理学者のお気に入りのゲームで、なぜなら彼らが研究したい「理論と現実の人間行動との乖離」がはっきりとあらわれるからである。実際に実験で似たようなゲームをやらせると、提案者は 50:50 に近い分配を提案することが多いし、応答者は不公平な分配を拒否することもある。

このnoteでのポイントは、 50:50 に近い分配を提案する提案者や、不公平な分配を破棄する応答者は、「非合理的」なのか?という問題である。

二つの(あまり面白くない)回答がすぐに思いつく。

一つ目:「非合理的である!なぜなら、ナッシュ均衡にたどり着くことが”合理的”であることが経済学の理論(ないしゲーム理論)によって『合理的』であることが示されているからだ!」
←これは、単純にあまり意味がない、というより頭が硬い、という意味で「面白くない」。これまで述べてきた内容と重なるので、これ以上述べることはない。

二つ目:「合理的である!ゲーム理論は、『自己利益の最大化』という目的に『合理性』を縛り付けているという意味で、合理性を恣意的に定義している!実際の人間は、自己利益以外にも、自尊心や、他者からの評価や、公平性のような道徳的価値も考慮して、より広い意味で『合理的』な選択をしている!」
過去のnoteで、似たような話題を扱った。おそらくこれは極めて正しい批判だと私は思うが、同時に、全ての人間が本当に自己利益の最大化主体であると本気で信じているゲーム理論家など存在しないだろうという意味で、釈迦に説法な論点だとも思う。さらに、このような批判は、「自尊心、他者からの評価、道徳的価値」といった無数の要素を考慮することを「合理性」に盛り込めることをもたらすので、あらゆる行為をアド・ホックに「合理的」にできてしまう、口がゆるゆるの袋のような「合理性」の定義をもたらしてしまうかもしれない。「提案者:4999円、応答者:5001円」の分配を破棄した応答者が「公平性を考慮して拒絶した」と述べていたとして、自分が得られたはずの5001円と、提案者が得られたはずの4999円をドブに捨てたこの人物を「合理的だ」と述べてよいものだろうか?(「非合理的な聖人」となら呼んで差し支えないかもしれない)

最後通牒ゲームの実験は、少なくとも、人間が目先の自己利益の追求以外に、怒りのような感情や、不公平感のような(自己利益追求以外の)文化的規範も考慮しているということを記述的に意味している。このような記述的な性質が規範的に合理的か否かという問題は、結局、これまで論じてきたような議論と軌を一にしているように思われる。

経済学という分野の内部で、より面白い論点を持ち込んだのが、ロバート・ フランクの『理性の中の感情(Passions Within Reason)』という研究だ。

ここでは、フランクは感情の進化生物学的分析(←つまりダマシオや、ギーゲレンツァーと同じような方向性!)を通じて、適応プログラムとしての感情の経済学的な特徴づけを行っている。フランクの結論は、一つ目の(頭の硬い)主張をする経済学者にとっても、二つ目の主張をする合理性の自己利益モデルの批判者たちにとっても、おそらく目を見張るものだろう:

一見非合理的に見える感情が、実は、自己利益の最大化をもたらす役割を果たしている

つまり、合理性を自己利益の最大化という強い(経済学的な)定義で捉えたときでさえ、感情合理的であるという主張である。

フランクは、次のような例を紹介している。

ジョーンズは200ドルの革鞄を持っており、スミスはその革鞄をとても欲しがっているとする。スミスがそれを盗めば、ジョーンズは告訴するかどうか決めなければならない。告訴すれば、ジョーンズは裁判のために出廷しなければならない。その結果彼は自分の革鞄をとり返し、スミスは60日間服役することになるだろう。しかし出廷すると、ジョーンズはその日の稼ぎ300ドルを得ることができない。これは革鞄の値段より高いので、告訴は彼にとって物質的利益にならない。だからジョーンズが純粋に合理的で自己利益を重視することを知っていれば、 スミスは罰を受ける心配なく革鞄を盗むことができる。ジョーンズは告訴すると脅すかもしれないが、効果はないだろう。
しかしここで、ジョーンズが純粋な合理主義者でないと仮定してみよう。つまりスミスが革鞄を盗んだら、ジョーンズは怒って、スミスに報いを受けさせるためには1週間分の稼ぎでさえ失うことを何とも思わないと仮定してみよう。このようにジョーンズが理性ではなく感情に突き動かされていることを知っていれば、スミスは革鞄に手を出さないだろう。自分のものを盗まれれば非合理的に反応する人間だと思われていれば、実際に非合理に対応する必要はなくなる。非合理的な人からは盗むのが馬鹿らしいからである。この場合には、物質的な自己利益のみに導かれて行動するよりも、非合理的な性格を持っているほうが、かえって良い結果を生むことになる。

R.H.フランク『オデッセウスの鎖:適応プログラムとしての感情(原題:Passions Within Reason: The Strategic Role of the Emotions)』山岸敏男 監訳, p.ii-iii、協調は原文

フランクは、このような考え方を感情の「コミットメント・モデル」と呼んでいる。裁判に行くという行為は、ジョーンズにとって金銭的には損である。だから、ジョーンズがお金のことだけを考えて行動すると考えれば、スミスは革鞄を盗んでも何も損をせず、ジョーンズは泣き寝入りをすることになる(ナッシュ均衡)。しかし、「革鞄を盗めば、ジョーンズは怒って、損失を顧みず裁判をしかけてくるだろう」というメッセージがスミスに伝わっていれば、スミスは鞄を盗まない。怒りという感情が、「ジョーンズは裁判に行く」という行為を保障コミットメントしており、それがスミスへの戦略的な”脅し”となっているのだ。

ジョーンズが(そして人間が)感情を身につけたのは、このような、自分にとって得になるような選択を、他者や他の生物種との戦略的相互作用のなかで引き出すためである、というのがフランクの主張だ。

最後通牒ゲームも、この感情の「コミットメント・モデル」で説明するとこうなる:

提案者は、応答者には怒りの感情があることを知っている。したがって、あまりにも不公平な配分を提案した場合、応答者は怒って(自らも損を顧みず)提案を破棄してくるかもしれないと考える。よって、提案者には、(9999円, 1円)ではなく、より公平な分配を提案する理由がある。
つまり、応答者は、怒りという感情を有していたことで、自分の利益を本来よりも高くすることに成功したと言える。

このフランクの研究は、ソマティック・マーカー仮説やヒューリスティックの合理性に関する研究と同じ性質——感情の進化論的な合理性を主張しているという——を有している一方で、異なる特徴——心の中での意思決定のモデルと、そこにおける感情の役割とは無関係に、感情そのものが有している進化的・経済学的なメリットを分析している——も有している。その結論が、「自己利益の最大化」という(狭い意味での)合理性への批判ではなく、むしろその(狭い意味での合理性の)枠組みの中で、感情を上手に分析することができるというものであるのも、印象的だ。


色々と見てきたが、結局のところ、このnoteの最初と最後の主張は、「理性と感情のホーリズム」である。つまり、理性と感情は切り離せない。感情 vs 理性 の二項対立では何も語れない。

そういう次元にまで、昔ながらの(デカルト的な)「合理性」を①否定する人々(ダマシオ、ギーゲレンツァー…)も、②規範的には受け入れつつも人間の実際の意思決定がそれには沿っていないことを示す人々(行動経済学者)も、③人間の合理性を楽観視する経済学的なモデルを可能な限り保持したい人々(フランクの研究)も、多様に花開いているのだということだ。

ソマティック・マーカーやヒューリスティックの話では、「感情」と名付けれらている人間の心の働きが、実際のところ「理性」と名付けられている人間の心の働きが機能するためには必要不可欠であったり、それを効率的・倹約的に作動させるものであったりするという議論が紹介された。

フランクの主張は、「感情」は、「合理性」と同様に、自身の利益や生存に最大限資するような行為をもたらす一つの機能であるという意味で、「理性」のなかに組み込まれているというものだった。

つまり、「理性」と呼ばれているものと、「感情」と呼ばれているものは、互いに阻害し合うものではない。ともすれば、二つの概念は、心の中において、それほど綺麗に切り分けられるものですらないのではないだろうか。人間の心(意思決定)をそれ全体としてホーリスティックに見た上では、両者は非常に似たような働きをするものである。

このnoteの内容で、私の主張に当たる部分は少なめだが、少なくとも、素朴心理学的な「合理性を阻害する感情」のモデルはもう人間の意思決定についての議論から——記述的にも規範的にも——捨て去って良いだろう、ということだけが、全体の書き方から伝わったのならば幸いである。そして、最後の主張——タイトルにもなっている「理性と感情のホーリズム」——については、まだもう少し肉付けが必要だろう、ということも。

2024/01/26


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