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囚人のジレンマはいかにして「ジレンマ」となるのか

……つまりホモ・エコノミクス[=自己利益の最大化のみを追求する合理的な「経済人」*引用者註]の人間像は、それが道徳的に見て眉をひそめさせるようなグロテスクな存在であるから疑問視されるだけではないのだ。そもそも欲望のあり方とその制御の方策との複雑な心的・社会的関係を無視して、まるで貪欲や金銭欲は自然な欲望で、それ以上遡ることができない出発点であるかのように考えるのは、かなり奇妙で特殊なものの見方だということだ。

重田園江『ホモ・エコノミクス—— 「利己的人間」の思想史』 p.26

物理学者, 化学者, 経済学者が, 無人島で立ち往生させられている。空腹で, 彼らは, 船から落ちた缶詰食品の木箱が浜辺に打ち上げられているのを見つける。あゝ, 彼らは缶切りを持っていない。物理学者は, どのようにすれば缶の内部の圧力を増大させて破裂させることができるかを解明する仕事に着手する。化学者は, ふたを侵食する反応を生み出すために使える自然発生の揮発性元素を探す。経済学者は, 腰を下ろして新発見の福利を計算する——「まず, 缶切りを想定せよ」, と唱えながら。

ドン・ロス『経済理論と認知科学:ミクロ的説明』(長尾/三上 訳)p.119

理論経済学者はたんに、概念を構築し、数学と論理を用いて、かれらが提唱した定義から示唆される特徴を探求しているにすぎない。…… モデルを議論している限りにおいて、仮説の現実性という問題は無視することができる。しかし、この時点では現実世界について何の主張もしていないということを想起しなければならない。

ダニエル・ハウズマン"The Inexact and Separate Science of Economics" p.79
*和訳はウェイド・ハンズ『ルールなき省察』(高見/原谷/若田部 訳)p.306を参照した 

「囚人のジレンマ」とは

「囚人のジレンマ」という言葉を聞いたことがある方は多いのではないだろうか。初めて聞いたという方や、聞いたことはあるが内容はよくわからないという方のために、まずは「囚人のジレンマ」とはどのような話か、大雑把な説明をしておこう。

ふたりのプレイヤー(以下、プレイヤーAとプレイヤーB)で、いまからあるゲームを行うとする。それぞれのプレイヤーができることは二つだけ:神様(ゲームマスター)に「相手に5000円を与えてください」とお願いするか、「自分に1000円を与えてください」とお願いするかのどちらかである。お互い、相手がどちらのお願いをしたかはゲームが終わるまでわからない。

このゲームには、4通りの結末が用意されている。簡単のために、「相手に5000円」を「協力」、「自分に1000円」を「裏切り」と呼ぶことにしよう。
A、Bがともに「協力」を選んだ場合、ふたりとも5000円を手に入れることができる。
Aが「裏切り」、Bが「協力」を選んだ場合、Aは6000円を手に入れ、Bは1円ももらえないこととなる。
Aが「協力」、Bが「裏切り」を選んだ場合、その逆となる(A 0円、B 6000円)。
A、Bがともに「裏切り」を選んだ場合、ふたりとも1000円を手に入れることになる。

さて、このゲームにおいて、プレイヤーAはどのような選択をするべきだろうか。
ゲーム理論に従えば、プレイヤーAがもし「合理的」ならば——すなわち、自分がこの1回のゲームから得られる金銭的利益を最大化するという目的に沿って正しく動くことができる主体ならば——かならず「裏切り」を選ぶべきということになる。
なぜだろうか。Aの視点に立って考えてみよう。Aは、相手(B)が協力してくれるのか裏切ってくるのかわからない。もしも相手が協力してくれると考えた場合、自分は裏切りを選択したほうが良い。自分も協力した場合に得られる金額は5000円であるのに対して、裏切ればそれよりも1000円多い6000円を手にすることができるからだ。(下図)

Bが「協力」してくれるならば、Aは「裏切り」をしたほうが得をする

相手が裏切りを選択するとしたらどうだろうか?ここでもやはり、Aは裏切りを選択したほうが良いことになる。自分だけが協力をすれば相手に6000円を総取りされてしまい、自分は1円ももらえない。しかし自分も裏切りを選択すれば、それよりはいくぶんマシな1000円を手に入れられることになる。(下図)

Bが「裏切り」を選んだ場合も、Aにとっては「裏切り」が得な選択肢である

つまり、Bの選択が「協力」だろうが「裏切り」だろうが、「自分が得られる金額を最大化する」という目的のみを考えて合理的な判断をすれば、Aにとって最も良い判断は「裏切り」ということになる。(下図)

Bの選択がどちらにせよ、Aは裏切ったほうが得をする

このゲームのルールはBにとっても同じなので、全く同じように考えれば、Bもまた「裏切り」を合理的に選択するはずである。つまり、このゲームには(5000, 5000)(協力, 協力)という「両者共に得をすることができる結末」が用意されているにもかかわらず、両者が合理的に行動した結果は、(1000, 1000)(裏切り, 裏切り)すなわち「両者共に損をする結末」となってしまうのだ。両プレイヤーにとって「裏切り」は常に「協力」よりも優れた選択肢(「支配戦略」)であり、(裏切り, 裏切り)はこのゲームにおけるいわば「最適解」(「支配戦略均衡」)なのである。

個人(ひとりのプレイヤー)の利益を最大化する選択(「裏切り」)は、全体(ふたりとも)の利益を最大化する結末(「協力, 協力」)を不可能にすることを意味する。この皮肉な葛藤ジレンマこそが、「囚人のジレンマ」である。

ちなみに、この現象が「囚人のジレンマ」と呼ばれているのは、これを提唱した数学者のアルバート・タッカーが説明のために、共犯を行った二人の囚人が別々に取り調べを受けている場面を用いたためである。このエピソードの場合、「協力」は黙秘(自分達は罪を犯していないと主張し続ける)、「裏切り」は自白(二人で罪を犯したということを告白する)となる。両者とも黙秘をすれば罪を大きく軽くする(ひいては無罪放免される)ことができるが、相手が裏切って自白をしているのに自分だけ黙秘を貫けば自分の罪だけが重くなる。相手から“売られる”ことを恐れた哀れな囚人たちは、結果、ふたりとも自白をしてしまう、というストーリーだ。


「理論」の外にあるもの

「囚人のジレンマ」はシンプルかつ非常に強力な理論で、実際、社会のさまざまな場面をうまく説明することができる。例えば、戦争をしているふたつの国にはそれぞれ「降伏(停戦)」と「戦争継続」というふたつの選択肢が用意されている。両国が停戦を選択すれば戦争は終わるが、自国だけ降伏して相手は戦争を継続した場合は敗戦、すなわち自分にとっては最悪の結果となる。結果、両国は「戦争継続」すなわち「裏切り」にあたる選択肢を選ばざるを得ない。一度始まってしまった戦争がなかなか終わらないメカニズムについての、ひとつの説明である。

このように、「囚人のジレンマ」もといこれを含む「ゲーム理論」は一見複雑な現象を理解し説明するうえで非常に重要な道具となる。これは間違いない。
しかし、上記のような「囚人のジレンマ」ゲームの説明が実は幾重もの「仮定」に支えられている、ということには注意が必要である。これは、意外にも多くの人には意識されていないことなように感じられる。もう一度、私が先ほど説明のために書いた文章を読み返してみよう。

ゲーム理論に従えば、プレイヤーAがもし「合理的」ならば——すなわち、自分がこの1回のゲームから得られる金銭的利益を最大化するという目的に沿って正しく動くことができる主体ならば——かならず「裏切り」を選ぶべきということになる。

「囚人のジレンマ」ゲームがその解——(裏切り, 裏切り)という支配戦略均衡——に辿り着くまでの一見穴のない論理の接続は、この「各プレイヤーが合理的であり、この1回限りのゲームによって得られる金銭的利益以外を顧みない」という強い仮定に支えられたものである。(ちなみに、伝統的な理論経済学ではこれに近い仮定のことを「合理的経済人ホモ・エコノミクスの仮定」と呼ぶ。)

この仮定を捨てて、金銭的な利益以外の新たな変数、例えば両プレイヤー間の「信頼」という要素を入れてみよう。両プレイヤーがこのゲームを1回やったきり今後一切関わることのない完全な赤の他人ではなく、このゲームが終わった後も何らかの関係を続けるとすれば、相手からの「信頼」を失いかねない「裏切り」という選択肢の魅力は下がるはずだ。

私は最初、以下のような説明を書いた。

Aは、相手(B)が協力してくれるのか裏切ってくるのかわからない。もしも相手が協力してくれると考えた場合、自分は裏切りを選択したほうが良い。自分も協力した場合に得られる金額は5000円であるのに対して、裏切ればそれよりも1000円多い6000円を手にすることができるからだ。

これは、「Aは金銭的利益以外を顧みない」という仮定があったからこそ成り立つ記述である。Aが多少なりとも「Bからの信頼」というものに価値を見出している人間ならば、この文章は次のように書き換える必要がある。

Aは、相手(B)が協力してくれるのか裏切ってくるのかわからない。もしも相手が協力してくれると考えた場合、自分は裏切りを選択したほうが良いかもしれない。自分も協力した場合に得られる金額は5000円であるのに対して、裏切ればそれよりも1000円多い6000円を手にすることができるからだ。ただし、Bは自分はAに裏切られたと思い、憤慨し、それまでAに対して抱いていた信頼をいくぶんか失うこととなるだろう。裏切ることで得られる余分な1000円の価値が、ここで失うことになる「Bからの信頼」の価値と見合わないと思うのならば、Aは協力をしたほうが良いということになる。


「囚人のジレンマ」の理論は、わたしたちが実際にこのゲームに直面したとして、誰もがこの理論の言うような選択(=裏切り)をするはずであるということを意味しない。まして、そうするべきであるということも絶対に言っていない。現実世界は理論上の話よりも遥かに複雑であり、私たちは自己の利益だけでなくもっとずっと色々なことを考えて判断をおこなっているからである。(これをもう少し難しい言葉で言えば、現実世界での選択は理論上の話と違い文脈依存的である、と表現できる。)

「囚人のジレンマ」は、「ゲームが1回限り」であり、「2人が自己利益の最大化のみを考え」ており、「2人とも、自分が協力したり裏切ったりすることでどのような結果が得られるかを理解し」ており、…というほぼ無限大に近いif条件(仮定)を用意されることで「ジレンマ」となる。
あなたが仮に親しい友人や恋人、家族とこのゲームに参加したとして、「裏切り」は合理的な選択肢となるだろうか?あなたは迷わず協力を選ぶはずだ。そこに葛藤ジレンマは存在しない。なぜならば、このゲームを終えた後も長く関わっていくであろう相手を裏切ることによって失うこととなる信頼は、相手を裏切ることによって得られる1000円よりもずっと重いものであるはずだからだ。
くわえて、現実には「裏切り」は信頼以外にもさまざまものを失う選択肢である。Aの中にある「自分は善人である(ありたい)」と思う自尊心は、彼ないし彼女が「裏切り」を選ぶことを妨げるだろう。そもそも、「裏切りは良くない」という私たちに根付いている主観(道徳)も、社会的なものでありながら、「囚人のジレンマ」の理論の“外側”に追いやられている。

理論は理論であり、現実を説明するためのものにすぎない

紙やコンピュータの画面の上で展開される理論ないしモデルは、現実を単純化/抽象化するさまざまな仮定の上で成立するからこそ、限られた重要な変数についてのわかりやすくて意味のある説明をもたらしてくれる。
現実世界に存在するすべての要素(変数)をふくんだ理論があるとしたら、それは理論ではなくただの現実世界そのものである。

私たちはゲーム理論のような経済学の理論が前提とするほど「合理的」ではないかもしれないが、経済学の理論が前提とするよりもずっと「複雑」である。私たちは自分の利益や金銭の獲得以外にもさまざまな要素を考慮して日常生活を送っているし、ある意味ではそれらさまざまな要素を勘案した上でのある種の「合理性」をもって選択を行っているのかもしれない。

誤解されたくないが、私は決して、仮定が現実とマッチしていないから理論に意味はないと言いたいのではない。現実を捨象し単純化することで、理論は理論としての価値を手に入れた。複雑すぎて理解することができない現実世界を、私たち人間が少しでも理解するうえで、仮定によって思考をシンプルにし、説得的な理論を組み立てるというやり方は非常に価値がある。
私が思っていることは、そうした理論の本質を忘れ、理論と現実の立場を逆転させようとすることほど愚かなことはないということだ。理論は現実を説明するためのものに過ぎない。人は説明したい現実に即してそれを理解し説明するための理論を組み立てるのであって、理論に即して現実を変えるわけではないのだ。
現実を理論に合わせようとすることほど馬鹿馬鹿しいことはない。経済学(ゲーム理論)が「この人が合理的ならば裏切るはずである」と述べているからといって、現実を生きるわたしたちがその理論の通りに——「合理的」に——選択をしなければならないというわけではないのである。

2022/09/06

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