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【巨人の肩の上から #11】-あたたかな心で

※この文章は、1年半ほど前に私の古いアカウントで投稿した文章をもとに(大部分をコピペして)こちらのアカウントで再投稿したものです。もとの投稿はこちら



不幸なことに、この二つの学問領域を単なる併置以外の形で関連づけることは論理的に可能であるとは思えない。経済学は、確認可能な事実を扱う。倫理学は価値の体系と義務とを扱う。この二つの研究の領域は、同一の議論の平面上には存在していない。

Lionel Robbins"The Essay on the Nature and Significance of Economic Science"(1932)
(ライオネル・ロビンズ『経済学の本質と意義』(小峯敦・大槻忠史 訳))
*翻訳は必ずしも邦訳書に従っていない

ロビンズにしてみれば、経済学の客観性を守ることだけが問題であり、そのために、価値判断を経済学の外部に追い払わねばならなかった。追われて行く価値判断に向って、倫理学という彼岸の土地を指示したのは、せめてもの親切であった。

西田幾太郎『倫理学ノート』


死刑は廃止するべきでしょうか?

これは頻繁に話題になる(そして大体の場合立場が二分化し、両陣営の平行線で議論が終わってしまう)議論です。最初に述べておきますが、この文章で私は日本は死刑を廃止すべきという主張も、死刑制度は存続すべきという主張もするつもりはありません(意見がないわけではないが、それをここで表明しても…という次第)。

人を殺すのは基本的には絶対に良くないことです。これは倫理や哲学の分野では絶対の命題ではないらしい(小浜逸郎『なぜ人を殺してはいけないのか』など、倫理学のこの分野を扱った本も多い)ですが、一般的にはそれは当たり前の感覚でしょう。
しかし、それはあくまでも「正当防衛」や「戦争状態」などの前置きがなければ、の話です。そのような前置きのもとでも人を殺めることが絶対悪かどうか(あるいはどのような前置きなら人を殺めることが許されると言えるかどうか)は、個人の倫理観によって意見がわかれる問題になってきます。死刑の論争も、「多くの他人の命を奪った凶悪な」人間を、「国家が」「罰として」殺すことは悪なのだろうか、という前提付きの倫理の問題におおよそ集約されているようです。


忘れてはならない重要な原則は、「倫理観」は本質的には常に主観であるということです。

(ただし、この議論はおそらく難しいです。我々は自分たちの倫理観を自主的に持っているように感じていても、実際は「法律」や「常識」などの外的な環境によって形成されている感覚との区別はつけられないでしょう。たとえば「差別的な発言を街中でしてはいけない」という倫理観は国がヘイトスピーチを禁止する法律を定めたことによって押し付けられたものかもしれないし、米兵は鬼畜であるというのが常識だった戦時中の日本人にとってアメリカ人を殺すことは倫理にもとる行為ではなかったでしょう。したがって私がここで「倫理観は主観的である」という際の含意は、倫理観は個人の’感覚’のようなものに完全に依存しているという意味においてではなく、個人の’感覚’とその個人が存在している’環境’とのあいだに相互作用が存在することを前提として認めた上で、その相互作用の結果つくり出されている個々人の「主観」なるものが想定できるだろう、そして、一般に「倫理観」と呼ばれているものはこの「主観」のみを起源にしているものと言って差し支えないだろう、という意味においてです。長くて余計な補足終わり!)

面倒臭い話が嫌いな方は読み飛ばしてください

だから、異なる主観に立つ人間同士が「たとえ国であろうと人の命を奪うことは“許されない”」「極めて非道な犯罪を犯した人間は“許せない”から死んで“当然だ”」などの主張をぶつけ合って、相手の「歪んだ」倫理観を矯正しようと熱弁を振るったところで、さほど議論に前進は生まれない気もします(これは決してそういった議論が無駄であると言いたいわけではないですが……)。


前置きが長くなりましたが、ここからが本題。私が経済学の門を叩いてすぐの頃、大学1年生だった私は教科書をパラパラとめくっていたときに、「ゲーム理論」の章で次のような面白い記述に出会いました。その思い出についてのお話です。

 凶悪犯罪を犯せば死刑になる。これは、罪を犯したものへの罰として、社会的に許容されている。しかし、凶悪犯も人間である。いったん罪を犯したとしても、その後で真摯に反省していて、更生の余地があるなら、必ずしも死刑にしなくてもよいのではないかという議論もある。
 殺人事件などの凶悪犯罪を犯した後では、被害者を生き返らせることはできない。いわばサンクコストである。その時点で最適な政策は、凶悪犯人でも更生の余地があるなら、死刑にしない方が望ましいだろう。これは、ある意味でのパレート改善の判断である。
 しかし、凶悪犯罪を犯しても、後で反省をすれば死刑を免れることが、事前に、、、わかってしまうと、潜在的な凶悪犯罪者に悪いシグナルを与える。すなわち、後で反省さえすれば、凶悪犯罪を犯しても死刑にならないと予想して、かえって凶悪犯罪を促進させるかもしれない。これは、潜在的な凶悪犯罪者が動学ゲームを最適に解く場合に生じる解である。

井堀利宏『入門ミクロ経済学 第2版』
太字の用語は簡単な解説を本記事の最後に付けましたので、専門的な内容にも興味がある方はご覧ください

この文章を読んだとき、私は大きな衝撃を受けました。これが「経済学的に考える」ということか!となかなかに合点がいったのを今でも覚えています。

この文章では、死刑は廃止するべきかもしれない、もしくは廃止してはいけないかもしれないという双方の立場が説明されていますが、どちらの意見にも「倫理的な」主張は見られません。あくまでもゲーム理論という観点からすればの話ですが、死刑を廃止すべきかどうかの判断は「人が1人死ぬことによる(労働力etc…の)社会的損失」と「死刑という抑止力が失われることによる(犯罪増加がもたらす)社会的損失」を天秤にかければ良いのだ、というわけです。

無差別大量殺人が起き、大切な人を失った遺族の悲痛なコメントがVTRで紹介された後に、コメンテーターとして登壇していたどこかの大学の経済学者が「しかし既に殺されてしまった方の命はサンクコストですから〜」などと言えば、そのワイドショーは炎上間違いなしでしょう。これをはじめて読んだ時の私の感想も「この人はなんて悪魔的な物言いをするんだ…」でした。現在主流のミクロ経済学は、突き詰めればやはり「社会科学」ですから、一つの側面として、遺族の悲しみとか殺人犯への憎悪とかを抜きにした客観的な論理が肝心だ、というわけです。死刑という制度の存在が、凶悪犯罪者が動学ゲームを解く上でどのような抑止力を与えているか。更生した死刑囚がその後社会にどれだけの「貢献」をするか。これを感情抜きに「比較」できれば、経済学者は一見正解がなさそうな冒頭の問いに客観的にも「正しい」答えを与えられるかもしれません。

ここまで読むと、私は経済学は冷徹で、過剰なほどに客観的な学問であるべきと思っているなかなかシニカルな人間だと思う方もいるかもしれません。弁明をさせていただくと、「経済学的(あるいは、数理科学的??)に考える」とは一つの例を示すとこういうことなのかもしれない、という話をしたかっただけで、私自身はそのような方向性に経済学が突き進むことを望んでいるわけではありません。

第一に、先ほどの動学ゲーム・モデルによる死刑の考察は、現実問題として死刑を廃止するか否かの議論にほとんど全く答えをもたらしてくれません。死刑囚が死ぬことによる社会的損失も、死刑という抑止力が存在することによって社会が得ている便益も、実際には正確に計算することが不可能だからです。たとえば、地球と全く同じ惑星(地球Bと呼びます)をもう一つ用意して、私たちの地球Aではすべての国が死刑制度を採用し、地球Bではどの国も死刑制度を廃止したとします。そして、二つの惑星で一定期間内に起きた凶悪殺人事件の件数を比較すれば、動学ゲーム・モデルを用いた計算も意味を持ってくるでしょう。しかし、そんなことは不可能です。

第二に、こちらの方が私にとっては重要な主張ですが、私は、やはり経済学をはじめ社会科学は「べき論」から目を背けてはならないと思っています。「貧困はなくなるべきだ」「犯罪は減るべきだ」「社会はより豊かになるべきだ」「環境に配慮した、未来の世代のことまで考えた経済活動が営まれるべきだ」。社会科学の多くの偉大な研究の出発点には、研究者の倫理的な主観が必ず存在することを学ぶ人は忘れてはいけない、と私は最近思うようになったのです。

もちろん、研究者の主観を排した「客観性」(社会科学においてはマックス・ウェーバーの言葉を借りて「価値自由」とも言います)を可能な限り目指した議論をする、という姿勢は重要なことですし、それ自体は何も悪いことではありません。むしろ、主観が学問に入り混じることを公然と良しとするような姿勢の方が私にとっては違和感を感じさせるものです。
しかしながら、純粋で客観的な理論だけでは、経済学は物足りないのです。そこが、物理学のような自然科学と社会科学の大きな違いだと私は思っています。私が冒頭に引用した経済学者ライオネル・ロビンズも、価値判断を可能な限り排した純粋理論としての「経済科学 Economic Science」と、研究者の価値判断や政策提言も含む広い意味での「政治経済学 Political Economics」を区別し、その両方の必要性を主張することで、それらすべての知的活動の総体としての経済学という学問が持つ有用性を、最大限体系的に整理しようとしました。私の目には、ロビンズのこのような学問的姿勢は非常に丁寧で、真摯なものに見えます。


Lionel Robbins(1898-1984) HET Websiteより

「Cool Head, but Warm Heart―頭は冷たく、しかし心は暖かく」(有名な経済学者マーシャルの言葉)、「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は妄言である」(二宮尊徳の言葉らしいが、本当かどうかは不明)。この世の経済学にまつわる名言を見ても、単に論理の学問だけで終わらせてはいけないからこその、この学問の魅力と深さが伝わってきます。温かい心と、冷静で論理的な理論。その両方を持ち合わせ、かつそれぞれの良さを混同させずに最大限発揮することに、経済学者の仕事の真髄はあるのでしょう。

引用部分の用語解説
私が書いたものであって経済学の教科書などを写したものではないので、正確性にはご注意ください。定義の間違いなどがあるかもしれないのであくまでも参考程度に…(間違いの指摘などありましたらぜひ教えてください)

サンクコスト
「埋没費用」とも言う。既に支払ってしまって回収することのできない費用のこと(ちなみに経済学では、「費用/コスト」といったときには基本的にお金の支払いに限らない。失った時間や、労力なども含めてコストである)。戻ってこない損失のために今更どうこう頑張っても無駄なので、現時点でもっとも良い(=得の大きい)判断はサンクコストに関係なくなされるべきである。食べ放題の焼肉店で元を取ろうと無理をしてでもお肉を食べる人がいるが、頑張っていくら食べたところでサンクコストである食べ放題の料金3,480円は戻ってこない。吐きそうになるまで食べるよりも帰って横になった方が現時点の自分にとって良い(効用が高い)と思うならば、サンクコストのことなど忘れてさっさと店を出るべきだ!

パレート改善
誰も損させずに、誰かの経済状態を改善すること。パレート改善をこれ以上行えない状態を、無駄のない配分状態として「パレート効率性」あるいは「パレート最適」と言う。りんごアレルギーで、りんごを所有していても何の得もない(りんごを食べるつもりも、売るつもりも、投げて遊ぶつもりもない)人間が持っているりんごを奪って、りんごが大好物の少年に渡すことはパレート改善の操作と言える。注意しておかなければならないのが、厳密な意味でのパレート改善にこだわると「平等性」は諦めなければならないことがあるということである。大金持ちからお金を奪って貧乏人に再配分するのは(度が過ぎなければ)おそらく社会的に良いことだが、どんな大金持ちでもお金にはある程度の執着がありそれを失うことは損失と感じるはずなので、厳密な意味でのパレート改善とは言えない。すなわち、パレート最適な状態は、必ずしも社会的に最適な状態を意味しない(が、パレート最適ではない社会は配分に無駄がある社会を意味するので、少なくともパレート最適でない状態はおそらく社会的に最適な状態ではない。「社会的に最適な状態」とは何かという問題にもよるが…)。

動学ゲーム
他の「プレイヤー」がどのように行動するか(どのような「戦略」をとるか)を考慮しながら、自分にとって最適な戦略を導く過程を「ゲーム」と呼び、その研究や理論を「ゲーム理論」と言う(ここでは説明しきれないので興味がある方は調べてみてください)。「動学的なゲーム(動学ゲーム)」とは、戦略の選択が一回限りではなく、何回かの段階に分けて解いていくことで最適な戦略を導き出せるゲームを指す。犯罪と死刑において、殺人犯が直面するゲームはおそらく下の画像のようなイメージになる(ペイオフ、つまりゲームの得点は私が適当に定めた。(a,b)という表記では、aがプレーヤー1つまり殺人犯のペイオフになる。例えば殺したいほど憎い奴が生きていれば殺人犯にとっては損なので、そいつを殺さない、という解の殺人犯のペイオフは-1と設定、殺人事件が起こらなければ社会は何も変化しないのでその時の社会のペイオフは0と設定、という具合である)。動学的ゲームを画像のような図(木の枝のような形なので「ゲームの木」と呼ぶ)を使って解くときには、図の下側から順番に各プレイヤーの判断を考えていく。そのような思考方法のことを、「後方帰納法」と呼ぶ。


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