【巨人の肩の上から #11】-あたたかな心で
※この文章は、1年半ほど前に私の古いアカウントで投稿した文章をもとに(大部分をコピペして)こちらのアカウントで再投稿したものです。もとの投稿はこちら
死刑は廃止するべきでしょうか?
これは頻繁に話題になる(そして大体の場合立場が二分化し、両陣営の平行線で議論が終わってしまう)議論です。最初に述べておきますが、この文章で私は日本は死刑を廃止すべきという主張も、死刑制度は存続すべきという主張もするつもりはありません(意見がないわけではないが、それをここで表明しても…という次第)。
人を殺すのは基本的には絶対に良くないことです。これは倫理や哲学の分野では絶対の命題ではないらしい(小浜逸郎『なぜ人を殺してはいけないのか』など、倫理学のこの分野を扱った本も多い)ですが、一般的にはそれは当たり前の感覚でしょう。
しかし、それはあくまでも「正当防衛」や「戦争状態」などの前置きがなければ、の話です。そのような前置きのもとでも人を殺めることが絶対悪かどうか(あるいはどのような前置きなら人を殺めることが許されると言えるかどうか)は、個人の倫理観によって意見がわかれる問題になってきます。死刑の論争も、「多くの他人の命を奪った凶悪な」人間を、「国家が」「罰として」殺すことは悪なのだろうか、という前提付きの倫理の問題におおよそ集約されているようです。
忘れてはならない重要な原則は、「倫理観」は本質的には常に主観であるということです。
だから、異なる主観に立つ人間同士が「たとえ国であろうと人の命を奪うことは“許されない”」「極めて非道な犯罪を犯した人間は“許せない”から死んで“当然だ”」などの主張をぶつけ合って、相手の「歪んだ」倫理観を矯正しようと熱弁を振るったところで、さほど議論に前進は生まれない気もします(これは決してそういった議論が無駄であると言いたいわけではないですが……)。
前置きが長くなりましたが、ここからが本題。私が経済学の門を叩いてすぐの頃、大学1年生だった私は教科書をパラパラとめくっていたときに、「ゲーム理論」の章で次のような面白い記述に出会いました。その思い出についてのお話です。
この文章を読んだとき、私は大きな衝撃を受けました。これが「経済学的に考える」ということか!となかなかに合点がいったのを今でも覚えています。
この文章では、死刑は廃止するべきかもしれない、もしくは廃止してはいけないかもしれないという双方の立場が説明されていますが、どちらの意見にも「倫理的な」主張は見られません。あくまでもゲーム理論という観点からすればの話ですが、死刑を廃止すべきかどうかの判断は「人が1人死ぬことによる(労働力etc…の)社会的損失」と「死刑という抑止力が失われることによる(犯罪増加がもたらす)社会的損失」を天秤にかければ良いのだ、というわけです。
無差別大量殺人が起き、大切な人を失った遺族の悲痛なコメントがVTRで紹介された後に、コメンテーターとして登壇していたどこかの大学の経済学者が「しかし既に殺されてしまった方の命はサンクコストですから〜」などと言えば、そのワイドショーは炎上間違いなしでしょう。これをはじめて読んだ時の私の感想も「この人はなんて悪魔的な物言いをするんだ…」でした。現在主流のミクロ経済学は、突き詰めればやはり「社会科学」ですから、一つの側面として、遺族の悲しみとか殺人犯への憎悪とかを抜きにした客観的な論理が肝心だ、というわけです。死刑という制度の存在が、凶悪犯罪者が動学ゲームを解く上でどのような抑止力を与えているか。更生した死刑囚がその後社会にどれだけの「貢献」をするか。これを感情抜きに「比較」できれば、経済学者は一見正解がなさそうな冒頭の問いに客観的にも「正しい」答えを与えられるかもしれません。
ここまで読むと、私は経済学は冷徹で、過剰なほどに客観的な学問であるべきと思っているなかなかシニカルな人間だと思う方もいるかもしれません。弁明をさせていただくと、「経済学的(あるいは、数理科学的??)に考える」とは一つの例を示すとこういうことなのかもしれない、という話をしたかっただけで、私自身はそのような方向性に経済学が突き進むことを望んでいるわけではありません。
第一に、先ほどの動学ゲーム・モデルによる死刑の考察は、現実問題として死刑を廃止するか否かの議論にほとんど全く答えをもたらしてくれません。死刑囚が死ぬことによる社会的損失も、死刑という抑止力が存在することによって社会が得ている便益も、実際には正確に計算することが不可能だからです。たとえば、地球と全く同じ惑星(地球Bと呼びます)をもう一つ用意して、私たちの地球Aではすべての国が死刑制度を採用し、地球Bではどの国も死刑制度を廃止したとします。そして、二つの惑星で一定期間内に起きた凶悪殺人事件の件数を比較すれば、動学ゲーム・モデルを用いた計算も意味を持ってくるでしょう。しかし、そんなことは不可能です。
第二に、こちらの方が私にとっては重要な主張ですが、私は、やはり経済学をはじめ社会科学は「べき論」から目を背けてはならないと思っています。「貧困はなくなるべきだ」「犯罪は減るべきだ」「社会はより豊かになるべきだ」「環境に配慮した、未来の世代のことまで考えた経済活動が営まれるべきだ」。社会科学の多くの偉大な研究の出発点には、研究者の倫理的な主観が必ず存在することを学ぶ人は忘れてはいけない、と私は最近思うようになったのです。
もちろん、研究者の主観を排した「客観性」(社会科学においてはマックス・ウェーバーの言葉を借りて「価値自由」とも言います)を可能な限り目指した議論をする、という姿勢は重要なことですし、それ自体は何も悪いことではありません。むしろ、主観が学問に入り混じることを公然と良しとするような姿勢の方が私にとっては違和感を感じさせるものです。
しかしながら、純粋で客観的な理論だけでは、経済学は物足りないのです。そこが、物理学のような自然科学と社会科学の大きな違いだと私は思っています。私が冒頭に引用した経済学者ライオネル・ロビンズも、価値判断を可能な限り排した純粋理論としての「経済科学 Economic Science」と、研究者の価値判断や政策提言も含む広い意味での「政治経済学 Political Economics」を区別し、その両方の必要性を主張することで、それらすべての知的活動の総体としての経済学という学問が持つ有用性を、最大限体系的に整理しようとしました。私の目には、ロビンズのこのような学問的姿勢は非常に丁寧で、真摯なものに見えます。
「Cool Head, but Warm Heart―頭は冷たく、しかし心は暖かく」(有名な経済学者マーシャルの言葉)、「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は妄言である」(二宮尊徳の言葉らしいが、本当かどうかは不明)。この世の経済学にまつわる名言を見ても、単に論理の学問だけで終わらせてはいけないからこその、この学問の魅力と深さが伝わってきます。温かい心と、冷静で論理的な理論。その両方を持ち合わせ、かつそれぞれの良さを混同させずに最大限発揮することに、経済学者の仕事の真髄はあるのでしょう。
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