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【巨人の肩の上から #4】 -花は盛りに?

世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし

伊勢物語 82段「渚の院」(→京都新聞の解説記事

散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世に何か 久しかるべき

同上

春が来て、外を歩けば咲き誇る桜の花が否が応でも目に入ってしまう、そんな時期が訪れた。この時期に毎年、決まって思い出すのが伊勢物語の82段、「渚の院」での和歌のやりとりである。
渚の院という場所で鷹狩りとは名ばかりの花見会をわいわいと開いていたとき、惟喬の親王の付き添いであった馬頭うまのかみ(有名な歌の名人、在原業平のことだと言われている)が桜の花を見てこんな歌を詠む。

「もしこの世の中に桜の花なんてものがなかったのならば、春の人々の心はおだやかだっただろうに」

満開の桜の花を見ると、その美しさに心打たれると同時に、すぐに花は散ってしまうだろう、いつまでも咲き誇ってはくれないだろうという心配もふつふつと浮かんできてしまうのが人間である。花の美しさに感動したり、すぐに散ってしまう儚さを名残惜しく感じたり。そんなあわただしい「春の心」を冷ややかに客観視して、だったらいっそ世の中に桜なんて無くなってしまえば良いのにと言い放ってしまう。どこか人間臭く、そして切ない、感情の吐露と言ってよい。


それを聞いた他の人物が、馬頭の歌への返しとして詠んだのが「散ればこそ…」の和歌である。

「いつかは散ってしまうからこそ、桜の花はいっそうすばらしいのだ。つらいことの多いこの世の中で、いったい何が変わることなくそのままでいられようか」

いつかは散ってしまう。この美しさは永遠ではない。そう思って見るからこそ、桜の花はいっそう美しく見える。世の中にあるあらゆるものははかなく無常であり(諸行無常)、だからこそそれを楽しむべきなのだ。
この歌は、前の和歌が詠んだネガティブな感情を真っ向から否定し、桜が散ってしまうという春の悲しみをも前向きに捉えようと言っているように見える。しかし一方で、この歌もやはり満開の花を虚心坦懐きょしんたんかいたのしんでいる人間の感覚とは言い難い。いままさに咲き誇り、散る様子を微塵も見せていない渚の院の満開の桜を前にして、この人物はその先にある世の無常さを感じているのである。酒を飲み交わし、歌を詠み合い、「憂き世」のことなど忘れてしまおうという花見の席で、このふたりは両者とも「花は散る」ということについて考えを巡らし、そこに情緒を見出している。花だけではない。権力者だって、故郷の町並みだって、男女の仲だって、そして人間の命だって、いつまでも変わらずに全盛期であるものなんて存在しない。後者の歌からは、単純な前向きさだけではなく、どこかこの世への諦めとも取れる感情が読み取れるような気がする。


私は、桜の花が好きではない。都会の街中に植えられて・・・いる街路樹の桜がこの時期、満開なのを見ると、綺麗だという気持ちよりも気味の悪さがまさってしまう。人工物に囲まれた都会のわずかな隙間に人の手によって植樹され、不自然なほどに沢山の花を鮮やかに咲かせる桜からは、自然の持つ美しさではなく、たださかりの花を消費したいという人間のごうを感じる。ひねくれ者の私は、同じ街路樹でも、まだ冬の寒さが残るような初春にひっそりと小さな花を咲かせる梅や、濃い緑の葉の中にポツポツと小さな花をつける木犀のほうが好きだと思ってしまう。

だんだんと気温が上がり、春の嵐も来たりなどして、花が散ってゆくと、人々は急に桜の木を見なくなってしまう。花の咲き散りなんぞよりもはるかに早く時間が流れ、情勢が刻一刻と変化する忙しい現代の情報社会では、散りゆく桜に世の無常を重ね、心ののどかさを願う余裕すらも無くなってしまった。現代社会に溢れるのは、ただ盛りのものを消費し、また新たな盛りを生み出そうとする、機械的な圧迫感のみである。満開のその一瞬にだけ人々の注目を集める桜は、まるで「ブーム」のときにだけ人々の注目を集め、消費され尽くされるや否や誰からも目を向けられなくなる現代資本主義の商品やサービスの象徴だ。現代に、絶えて桜の、なかりせば。それでも人々の心は、のどかになどならないのだろう。


兼好けんこう法師の随筆『徒然草つれづれぐさ』に登場する有名な一節は、書かれてから700年近くが経った現代でも十分に説得力を持っている。

花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。
雨に向かひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。
咲きぬべきほどのこずえ、散りしをれたる庭などこそ、見どころ多けれ。

徒然草「花は盛りに」(→全文&和訳[他者サイト])

花は満開の時に、月は満月の時にだけ見て楽しむものだろうか?
雨が降る夜に、雲に隠れて見えない月の在処を求めて恋しく思ったり、すだれを下ろして家の中にこもり、春が終わってゆくことに気づかないのも、やはりしみじみとして情緒があるものだ。
もうすぐ花が咲きそうな桜の木の梢や、散り落ちてしまった花弁が落ちている庭なども、見どころが多い。

2022/04/05


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