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自由。「本質的に副産物である状態」。

俺のアートには自由さが足りねー!

なんの番組だったかは忘れてしまったが、以前テレビでお昼の情報番組を見ていたら、その中の企画で「ジャニーズのタレント◯◯が芸術に挑戦!」のようなものがあった。内容としては①ある男性アイドルが、SNS上で人気のあるプロの芸術家から簡単な指導を受ける ②実際に作品を制作してみる ③スタジオに二つの作品が運び込まれてきて、どちらがプロの作品でどちらがそのアイドルの作品かを他の出演者がクイズ形式で当てる といった流れだったのだが、クイズの正解発表の後がお約束、プロの先生が「”本物”を見分けるポイント」を男性アイドルの作品の至らない点とともに解説するVTRが流れて、一件落着である。現代アートというものは私を含むほとんどの人にとってはたいてい、一目見ただけでは何がすごいのかよくわからないものなので、そのVTRを流してプロの権威を立てなければ、視聴者が「え、アイドルの作品の方が良くないか?」みたいな気持ちになる可能性があるなどしてまずいのだろう。

私が見ていた回では、プロの作品を見極めるポイントは筆や絵の具の使い方の「ダイナミックさ」にあったとの解説がなされていた。道具を使いこなし、豪快に筆を入れることに躊躇も恐れもない経験豊富なプロの作品は、線の一本一本に躍動感がある。一方、ほぼ初挑戦の男性アイドルの作品は、失敗を恐れて丁寧に筆を入れすぎたが故にどこか薄味な印象になってしまっている、というわけだ。それを聞かされた後で二つの作品を見比べると、「確かになあ…」という気持ちになった。

さて、その番組のなかでもっとも私の印象に残ったのは、その解説VTRが流れた後に、男性アイドルが放った言葉である。彼は、自分の作品は丁寧すぎる、という指摘をプロから受けた後、こう言ったのだ。

「俺のアートには自由さが足りねえー!!」

この発言がどこか面白くて、番組を見終わった後も、その日はしばらくこの言葉の意味について考え込んでしまった。

この言葉を言い換えれば、プロの先生の作品は彼の作品よりも「自由」だった、ということになる。しかし、これは考え方によっては逆説的だ。

プロの芸術家たちは、おそらく私には想像もできないほどの並々ならぬ努力を積み重ねて、その道で身を立てられるまでの域に至っただろう。そのなかで、作品をよく見せるための技術や理論を習得してきたわけだ。彼らはどのように描けばうまくいくかも、逆にどのようなことをしてはいけないかも、知り尽くしている。

私は子どもの頃、さまざまな種類の絵の具を「配合」して見たこともないような色を作り出し、その(混沌とした)謎のミックス絵の具で絵を描くことが好きだったのだが、あるとき学校の美術の授業で先生から「絵の具を無闇に混ぜると色が濁り汚くなるので、できるだけ混ぜないようにしなさい」という指導を受けて以来それをやらなくなった。芸術を習得していくということは、このような学習と経験の積み重ねである。直感的に言えば、これは、「自由」を削っていく過程そのものだ。私は「絵の具を混ぜると色が濁る」という理論を学習したことで、思うがままに絵の具を配合する自由を失った。その代わりに、「うまく」絵の具を使えるようになるための技術と知恵を身につけたのである。

この意味で、もっとも「自由な」芸術とは、生まれて初めて筆と絵の具を手にした子どもが、何も指示されることなく思うがままに作り出したものなのだ。大人になるにつれ、多くの人は空を青く塗り、木の葉を緑色に塗り、雲を白く塗る凡庸な「正しさ」を規範化させてゆく。だからこそ、私たち大人はしばしば、その規範に嵌らない子どもたちの「自由な感性」に衝撃と感動を覚えるのだろう。このことから考えてみれば、むしろあのとき「自由さ」を有していたのは、男性アイドルの方なのだ。彼は初心者アマチュアで、対する先生は芸術家プロフェッショナルだった。なんの知識にも、ルールにも縛られず、思うがままに筆を動かす権利を有しているのは、初心者の側なのだ。彼には丁寧に筆を使い躍動感を欠く作品を生み出す自由も、乱暴かつ気まぐれに筆を使い子どもの落書きのような絵を生み出す自由もあったはずだった。一方プロの先生には、ほどよく豪快だが技術と経験も光る、「プロっぽい」作品を作る以外の選択肢は存在していなかった。

ピカソはその晩年に、「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ」という言葉をのこしたらしい。この逸話はまさに、「子どものように自由に描く」ということがどれほど(特に芸術に熟達した者であればあるほど)難しいかを象徴している。芸術家として大成した人物が「自由さ」を作品に求める時、彼は自分に「自由であること」を強制する。これまで身につけてきた技術、理論、それら全てを一切合切忘却して、純粋無垢で虚心坦懐なまま筆を動かせと、自らに命じるのだ。そうしなければ、自由になれない。しかし、そうするほどに、彼は自由ではなくなってゆく。「自由であれ」という命令に己を従わせようと努力しているうちは、彼は永遠に自由を手に入れられない。なんと皮肉なパラドクスだろう。

「本質的に副産物である状態」

最近、ヤン・エルスター『酸っぱい葡萄』というとても面白い本を読んだ。その内容はかなり多岐にわたるので、ここでは紹介しきれない(同書の内容をWeb漫画『ちいかわ』と結びつけて要約するという非常に楽しくて野心的な記事を見つけたので、そちらに譲る)が、この本の中でエルスターはある目的が「本質的に副産物である状態」であるケース、という概念を提唱している。

心的および社会的状態には、他の目的のために行われた行為の副産物としてのみ生じうるという特徴を持っているものがいくつかある。それらは理知的に、あるいは意図的に生じさせることが決してできないものである。というのも、そうしようと試みるというまさにそのことが、もたらそうとしている状態を排除してしまうからである。

ヤン・エルスター『酸っぱい葡萄—合理性の転覆について』(玉手慎太郎 訳)p.67

エルスターはこのような状態について、数多くの例を挙げて説明している。その全てを引用することはできないが、いくつか紹介しよう。

・不眠症患者にとっての睡眠
不眠症を経験したことがある人はよくわかるかもしれないが、眠れなくなっているときに、「眠らなければ」と自分に言い聞かせることは逆効果である。多くの場合、睡眠は、睡眠を望まないこと、つまり他のことを考えることを通じて、その副産物として訪れる。しかも、「自分は眠るために睡眠以外のことを考えているんだ」という意識がある場合、その方法は大抵うまくいかない。睡眠という状態を自分が目指している、ということを完全に忘却した時に初めて、不眠症患者は睡眠を手に入ることができるのだ。

・仏教(特に禅宗)における「無心」の教義
無心(無意識)の状態を意図的に達成あるいは獲得しようと欲すること、精神の留守を精神的に意志することは不可能である、ということを禅宗の教えは繰り返し説いている。(この例はエルスターが挙げたものではないけれど、)スポーツ選手の「ゾーン」もこれに近いだろう。「ゾーンに入りたい」という意志(「邪念」?)もなくなるほどに目の前の対象に集中した時にはじめて、ゾーンは訪れる。

漫画『ドラゴンボール』のミスター・ポポは意図的に「心を無にする」ことができる。しかし、エルスターに言わせれば無心状態は「本質的に副産物」であり、「心を無にしよう」と心で思って到達できる領域ではない。

・印象づけようという試み
自分がどのような人間かを他人に印象づけようという目的のためになされた自己表現が合理的すぎると、えてしてその試みは失敗する。(これもエルスターが挙げた例とは異なるが、)周囲に対して自分を知的に見せようと、必死に難解な言葉を用いる人物は、かえって周囲の者たちに「愚か者だ」という印象を持たれてしまう。先に紹介した最高の記事では、『ちいかわ』に登場するモモンガというキャラクターが必死にかわいこぶっているにも関わらず、ちっとも周囲からかわいいと思ってもらえない、というエピソードが紹介されている。かわいこぶらずに、すなわち「自然体で」いたときに、モモンガははじめてかわいくなれたのだ。

・芸術家たちの型破りさ
まさに自分がさっきまで論じていた話を、エルスターもしていた(ただし社会哲学に習熟しているエルスターは私よりもはるかに慎重に「自由」という言葉を使っているため、この話題では決して「自由」という言葉は使わず「型破り(disorder)」という言葉を使っている)。本物の「型破りさ」を表現することはほとんど不可能なので、芸術作品の型破りさと呼ばれるものは大抵、芸術家が訓練によって身につけた技術(「セオリー」に無関心であるように自分に言い聞かせる努力)によるものである。意志によって本当の型破りを創り出すことは、不可能なのだ。同じような話で、かつて数学者のフォン・ノイマンは「当たり前のことだが、ランダムに数字を生み出す算術的方法について考える人は誰もみな罪を背負っている」と述べたという。完全にランダム(=無意識)な数字を意識的に生み出す試みは、論理的に破綻している。


「自由」という言葉をどう定義するかにもよるが、直感的には、「自由」もまた、「本質的に副産物である状態」なのではないだろうか。すなわち、「自由であろう」と試みることは本質的に無意味で、どころか自滅的な行為、すなわち「自由であることを自分に強制する」行為に他ならないのではないだろうか。『酸っぱい葡萄』の中では、「ルイ一五世治下の最も有能な大臣であったマショー氏は、政治的自由の観念に思いを致し、それを国王に提言した。しかしながら、このような計画は他人に勧めるようなものではない。構想を思いついた者だけが、それを実行する適任者だからである。」というトクヴィルの言葉が引用されていた(p.125〜126)。国王が国民に「自由であれ」と命じたとして、それで社会にもたらされるのは自由ではなく、「自由に振る舞うこと」の強制なのだ。この理屈でいけば、国王だろうと誰であろうと、「自由な社会」を構想デザインし、自らの力で実現プラクティスすることはできない。

エルスターは(おそらく)このような単純かつ残念な結論に至ってしまわないために、本書の第3章で社会における「自由」についてもさまざまな論考を行い、「自由」とは人間にとってどのような状態を指すかなどについても再定義を行ったりなどしていると思われるのだが、それを読んでもまだ、うまく自分の中でこの「自由のパラドクス」の答えは出せそうにない。私は「人間は自由でなければならない」「自由な社会が望ましい」とよく自分にも他人にも標語のように言い聞かせてきたわけなのだが、自由が本質的に副産物であるのだとしたら、このような言葉は自己矛盾してしまっているわけだ。

このテーマについてもっとしっかりと考えるためには、まだまだ時間と勉強が必要そうだ。エルスターの真意がちゃんと読み取れているのかどうかも、正直なところまだ自信がない(『酸っぱい葡萄』は面白いが、とても難しい本だ!)。何はともあれ、この1冊にはいろいろなことを考えさせられたなあ、と思う。(そして、繰り返しになるが、この本を『ちいかわ』と結びつけようという発想は最高にクレイジー(もちろん褒め言葉)だと思う。こういう自由な発想力を自分も持ちたいものだ。)

2023/02/15

追記:後編を上げました

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