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自由。「開かれたドアの数」。

※先日投稿した記事『自由。「本質的に副産物である状態」』の後編です。先にそちらをお読みくださると幸いです。

もうひとつの「自由」

この「後編」の作戦

実は先だっての記事(『自由。「本質的に副産物である状態」』、以下、「前編」)では、私はズルをしている。前編の前半では、私はプロの芸術家と初心者の男性アイドルの芸術対決のエピソードを提示し、あの時「自由」を有していたのは男性アイドルの方だったと主張した。このときに私が犯したズルとはなにか。それは、「自由」の恣意的な定義づけである。しかもさらに問題的なことに、それは、明確な定義を示さないままでの、恣意的な定義づけだった。そしてさらにさらに問題的なことに、前編の内容が多く負っていた本、ヤン・エルスター『酸っぱい葡萄』では、かなりの分量を割いて私とはかなり異なる意味で「自由」という言葉が定義され、論じられている。

要するに、私は前編で ①勝手に「自由」という言葉の意味を決めた上で ②それがどんな意味かをはっきりとは記さずに ③エルスターの論をいいとこ取り(「本質的に副産物である状態」という言葉だけを借用) したという三重の罪を犯している。だから、「いやいや、芸術対決で『自由』を有していたのは初心者の男性アイドルの方ではないよね。プロの芸術家先生の方が『自由』だったよね」と主張することは簡単である。この①②のズルを見抜いた上で、私とは異なる「自由」の定義を明確に提示し、その定義をよりよく満たしていたのは芸術家の方であったと述べればいい。そして、そのためのヒントは『酸っぱい葡萄』の中にしっかりと書かれている。この事実が、③のズルにも深く矛を突き刺すことになるだろう。

「選択肢の数」に注目!

私は前編では、簡単に言ってしまえば「強制の少ない状態」という意味で「自由」という言葉を用いていた。エルスターはこの意味で「自由」という言葉を絶対に用いていない。(前編の記事の中で言及したが、)彼がこのような状態、例えば色の塗り方のセオリーや筆の使い方のルールを気にせずに絵を描くことができる状態を表現するために用いる言葉は、「自由(free)」ではなく「型破り(disorder)」である。disorderとは、「orderすなわち秩序/命令を欠く状態」ということだから、この言葉は「無命令」/「無強制」とも捉えることができるだろう。言い換えれば、前編で私が採用していた「自由」とは「無強制としての自由」である。芸術のセオリーを知らない子どもの方が、さまざまな技術とルールを身につけたプロの芸術家よりも、絵を描く際のしがらみが少ない。だから、子どもの方が自由を有している(そして、子どもとプロを両極に置いた線分上で、初心者の男性アイドルの方が子どもに近い側にいる)。これが前編のレトリックだった。

この後編でのアイディアは、全く異なる意味で「自由」を定義する、ということだ。ここでは「実際にできること」の数、すなわち「実現可能な選択肢の数」に注目する。

芸術家とアイドルの話をする前に、直感的な例から入ろう:10億円の資産を持つ富豪と、ほとんど貯金を持たない貧困者。休日をより「自由に」過ごすことができるのはどちらだろうか?

「自由」を「強制の少ない状態」と定義する場合、この問いに答えることはできない(あるいは「両者とも自由だ」と答えることになる)。なぜか。両者とも、休日をどのように過ごすかは自分の意思で決めることができるように思われるためだ。休日の過ごし方を強制してくる者(例えば貧困者は休日も労働をするよう強いてくるような政府)が存在しない限り、両者は自由に、自らの選好に従って、好きなように休日を過ごすだろう。貧困者は散歩に出かけることも、家でゴロゴロすることも、日雇い労働に励むことも、なけなしのお金でファミレスに外食に行くこともできる。仮に彼にとって、その中では「家でゴロゴロする」ことが最も強い欲望だとしたら、彼にはそれを実際に行う自由がある、というわけだ。

しかし、もちろんこの答えは多くの人にとって違和感がある。日常的な感覚からして明らかに、休日の過ごし方の「自由度」は富豪の方が高そうだ。それはどのような観点からだろうか?無論、それは富豪は貧困者より多くの選択肢を有しているという点においてである。たしかに、貧困者は散歩に出かけることも、家でゴロゴロすることも、日雇い労働に励むことも、ファミレスに外食に行くこともできる。彼は誰からも命令されることなく、この中から好きな休日の過ごし方を選べば良い。しかし、富豪は、散歩に出かけること、家でゴロゴロすること、日雇い労働に励むこと、ファミレスに外食に行くことに加え、ゴルフをすること、不動産投資の戦略を考察すること、高級フレンチのディナーに行くこともできる。要するに、彼は貧困者より多くの休日の過ごし方の可能性を有している、という意味で、彼は貧困者よりも自由なのだ。

①「強制の少ない状態」であること ②「実現可能な選択肢が多い状態」であること という二つの意味の「自由」を整理したところで、芸術家とアイドルの絵画勝負に話を戻そう。

あの企画の中で、プロの芸術家先生は、プロの芸術家として「プロらしい」作品を描くことを期待されていた。(理論的にはもちろん、その場で突然狂気的な衝動に駆られて「型破りに」なることもできたかもしれないが、)事実上、どのような作品を描くかを「強制」されていたのは芸術家の先生の方である。だから①の意味で、「自由」を有していたのは男性アイドル(あるいは生まれて初めて絵を描く子ども)の方であった。これが前編で私が書いた内容だった。

しかし、②の意味での「自由」からの観点ではそうはいかない。あの場における選択肢の数、すなわち現実的に描くことのできる作品のバリエーションは、技術的な制約によって男性アイドルの方がはるかに少なかったのだ。男性アイドルは単純に初心者なので、どれほど強く「プロっぽい」絵を描くことを欲したとしても、それを実現することはできない(実際、彼は欲していただろう。というのも、企画の内容が「スタジオにいるゲストが、どちらの作品がプロのものでどちらの作品がアイドルのものかを当てる」というクイズだったからだ。どうせならゲストを悩ませ、騙すことができるような、プロっぽい作品を作りたかったはずである)。制約が金銭によるものか技術によるものかという外見上の差異はあるものの、貧困者が高級フレンチのディナーをどんなに強く欲求したとしても、それを実現することはできない(したがって、彼は自由ではない)のとちょうど同じである。

一方プロの芸術家先生には、多くの選択肢が存在していた。太い筆を使いこなして描いても、細い筆を使いこなして描いても、豪快なタッチを生かしたダイナミックな作品を描いても、繊細なタッチで緻密な作品を描いてもよかった。少なくとも、彼はそれら全ての選択肢を、実現することができた。明確に、②の意味で自由を有していたのは先生の方である。

適応的選好形成と自律の問題

『酸っぱい葡萄』(p.209)のなかで、エルスターはアイザイア・バーリンの言葉を引用しながら次のように説明している。

自由とは、端的に言って自由とは、自由な人間であるとは、何であろうか?この問いについて、区別すべき二つの極端な回答がある。一つは、自由とは単純に、欲求がどこから来ているかに関係なく、したいと欲することを自由になすことができることに存する、というものである。よく知られた一節の中でアイザイア・バーリンは、この自由概念に反論している——「もし自由の程度が欲求充足の関数であったなら、私は欲求を除去することによって、欲求を充足するのと同じくらい効率的に、自由を増加させることができるだろう——本来の欲求のうちそれは満たさなくてよいと私がみなした欲求の消失に慣れさせることによって、私は人々を(私自身を含めて)自由にすることができることになるだろう」。そしてこれは受け入れられないものであるというのが彼の見方である。この議論によってバーリンは、自由の定義のスペクトラムの、もう一方の極端に導かれた。「ある人の自由の大きさを決めるのは、開かれた現実のいくつかのドアであって、彼自身の選好ではない」。自由はドアの数と重要性、そして開き具合によって測られるのである

(強調は引用者による)

一つ目の回答(「自由とは単純に、欲求がどこから来ているかに関係なく、したいと欲することを自由になすことができることに存する、というもの」)は、そもそも自由という言葉を定義するために「自由になすことができる」という言葉を使っている時点で奇妙というか破綻しているものではある気がするが、上の①の定義に対応するものと捉えることができるだろう。

しかし、バーリンはこの意味には問題があると考えている。この意味で「自由」を定義してしまうと、「欲求を除去することによって、欲求を充足するのと同じくらい効率的に、自由を増加させることが」できてしまうのだ。どういうことだろうか。先ほどの、富豪と貧困者の休日の過ごし方の例を借りよう。仮に貧困者が、休日の過ごし方について「高級フレンチでご飯を食べて過ごしたい」という欲望を抱いていたとする。彼はこの欲望を実現する自由を持たない(「高級フレンチでの食事」という行為を「自由になすこと」ができない)、という意味では、①の意味での自由も有していないと言える(我慢して安いファミレスで食事をすることを、金銭的制約によって強制されている)。彼を「自由」にしてあげるにはどうしたら良いだろうか?最も簡単に思いつくのは、彼にお金を与えること、すなわち「欲求を充足」させてあげることだ。

しかし、もう一つ、「同じぐらい効率的に」彼の「自由①」を増加させる方法が存在する。それは、彼の「高級フレンチでご飯を食べて過ごしたい」という欲望を消去することだ。実際、これは現実において極めて自然に発生する。貧困者はわざわざ休日の過ごし方の選択肢として、散歩に出かけること、家でゴロゴロすること、日雇い労働に励むこと、ファミレスに外食に行くことだけでなく、どうせ実現することのできないゴルフや高級フレンチという選択肢も欲望のリストに入れるだろうか?もちろん時折そのような実現不可能な贅沢を夢想することはあるかもしれないが、ほとんどの場合、そもそもそのような高級な選択肢は最初から欲望として登場し得ない(これは、後に出てくる「適応的選好形成」の問題とも深く関係する話である)。だから、「自由」を①の意味で、すなわち選択肢の数とは無関係に、「好きな選択肢を自由に選ぶことができる」という観点から定義してしまうと、貧困者や、絵について何も知らない子どもも「自由」だということになってしまうのである。バーリンが言おうとしていることは、おそらくこういうことだろう。

「もう一方の極端」すなわち「ドアの数」に着目した自由が、②に対応するものである。この文章によれば、バーリンの支持する「自由」が自由②そのものであると解釈できるだろう。もちろん、エルスターが「極端な」という言葉で述べているように、この二つの「自由」の概念は相反するものではないし、どちらかの定義しか受け入れられないという排中律でもない。むしろ両者を極として参照しながら見通しよく自由について論じていくことが可能になるようなものであろう、というのが私の意見だ。

しかし、エルスターの主張はこのさらに一歩先へゆく。プロ芸術家とアイドルのエピソードからは離れてしまうが、面白いので以下ではエルスターが『酸っぱい葡萄』の本題として掲げる適応的選好形成と自律の問題について自分用のメモがてら走り書きしようと思う。

適応的選好形成——「酸っぱい葡萄」の寓話

ここにきてやっと、エルスター本人は「自由」をどう定義したのか?という問題の答えらしき文章について考察する機会が訪れる。それは、以下の文章である。

 私がここで主張しているのは、要するに、自由の程度は人が(1)自由になすことができ、かつ、(2)それをなすことを自律的に欲しているような物事の、数と重要性に依存しているということである。この主張は自由についての二つの中心的な直観に配慮したものである。第一に、自由は何らかの種類の制約されない運動を含んでいなければならない。私がとてもたくさんの重要な、しかし私がしたいこととはまったく重なっていない機会を与えてくれる社会に暮らしているとしよう。その場合において私はとてもたくさんの自由を持っているのだと述べるのは誤りであろう、というのが私の主張である。しかし第二に、〔他人による〕操作や適応的選好形成によってわずかなものに満足するようになっているというただそれだけの理由で、ある人は自由である、と述べることが誤りだということもまた直観の教えるところである。自律的な欲求という言葉で——あらゆる欲求という言葉によってではなく、また欲求という言葉をまったく用いないのでもなく——自由を定義することで、私たちはそれら二つの直観に応えることができる。……

『酸っぱい葡萄』p.210〜211、強調は引用者

この文章を読むと、彼は①と②両方の意味の自由を、それぞれ(1)(2)という形で、アップデートして両立させていることがわかる。①→(1)はほぼそのままの意味である(「私がとてもたくさんの重要な、しかし私がしたいこととはまったく重なっていない機会を与えてくれる社会に暮らしているとしよう。その場合において私はとてもたくさんの自由を持っているのだと述べるのは誤りであろう」という文章は、前編を書いた時の私が今この文章を書いている時の私に返すことができる核心的な反論だろう)が、(2)が厄介だ。だが、「第二に…」以降の内容をじっくり読めば、彼の「自由」定義を理解するためのキー概念こそが、『酸っぱい葡萄』の主題である「適応的選好形成 adaptive preference formation」と「自律 autonomy」であることがわかる。これらの概念を紐解いてゆけば、お昼の情報番組でたまたま見かけた素人vsプロの芸術対決とこの本の内容を結びつけてしまったことによって発生した、この二編にわたる「自由」の概念との戦いにも暫定的な終わりをもたらせそうだ。

まずは「適応的選好形成」からはじめよう。「適応的選好形成」とは、「欲望を実現可能性に沿うよう調整する」人間の心理のことである。このような適応を人間が行う理由は、「どうしたって満たすことのできない欲望を抱くことから感じる緊張や欲求不満を減らそうという衝動」が全ての人間には備わっているからだ。(p.38)

この現象をシンプルに表しているのが、本書のタイトルにもなっている「酸っぱい葡萄」の由来である、ラ・フォンテーヌ『寓話』の「狐と葡萄」の一説である。

ガスコーニュ生まれのあるきつね、ノルマンディーの出ともいわれた。
ほとんど飢え死にしそうになったとき、ぶどう棚のてっぺんに
 はっきりとよく熟れて
 皮も真紅まっかな房を見た。
抜け目のないこのきつね、こいつはうまい食事と思った。
 が、手が届かないので、こうすて台詞。
「あいつは青すぎる、下郎手合いにちょうどいいもの」
 この言葉、愚痴よりはましではないか?

ラ・フォンテーヌ『寓話』巻の三、十一(窪田般彌 訳

狐はおいしそうな葡萄を見つけたが、棚の高いところに置いてあるため手が届かない。そこで、「あの葡萄は酸っぱいのだ。食べない方がましだ」と自分の選好を変化させたのである。つまり、その葡萄を食べるという欲望を満たすことが自分にはできないと知ったことで、狐の選好順序は「葡萄を食べる>食べない」から「葡萄を食べる<食べない」に変化した。いわば、葡萄を食べることは成就しないという現実に、選好を適応させたのである。

この現象は、現実の人間でもいくらでも発生しうる。たとえば、「舌が庶民的だから、高級な料理は味が薄くておいしくない」ということを言う人が時折いる(私がそれである)が、これは高級な料理を頻繁には食べられないという経済的条件に自分の選好を適応させることで、「高級な料理」の順位を下げていると説明できる。ちょうど、狐が手の届かない葡萄を「すっぱい」と決め付けたのと同じだ。エルスターと同様に適応的選好形成の問題に言及したアマルティア・センも、「飼い慣らされた主婦」の例と呼ばれる話でこの現象を説明し、発展途上国で暮らす人々の福利を測る上で彼/彼女らの主観的な幸福度から評価を行うことが誤りであることを主張している。

実際に、個人の力では変えることのできない逆境に置かれると、その犠牲者は、達成できないことを虚しく切望するよりは、達成可能な限られたものごとに願望を限定してしまうであろう。このように、たとえ十分に栄養が得られず、きちんとした服を着ることもできず、最小限の教育も受けられず、適度に雨風が防げる家にさえ住むことができないとしても、個人の困窮の程度は個人の願望達成の尺度には現れないかもしれない。

アマルティア・セン『不平等の再検討——潜在能力と自由』(池本、野上、佐藤 訳)p.77

ただし、ここで、エルスターは適応的選好形成と計画的性格形成(Character planning)は似ているが区別しなければならないものであると強調していることには注意が必要だ。私が、自分が経済的に群を抜いて富裕ではなく、したがって高級な料理を頻繁に食べられない身分であることを受け止め、自分の味覚を「安いものでもおいしく感じることができる」ようなものにしようと意識的に務めたとする。これは、衝動的に発生する「酸っぱい葡萄」の現象とはまったくもって異なるものだ、とエルスターは言っている(p.194〜198)。適応的選好形成が手の届かない選択肢を格下げする(「高級料理は味が薄い!」)のに対し、計画的性格形成は手の届く選択肢を格上げしようと試みる(「ファミレスはコスパがいい!」)ので、羨望や怨恨や敵意(金持ちへのルサンチマン)に繋がりにくい。そして、エルスターにとってはこれが最も重要なことであると思われるが、計画的性格形成は自分の意思(計画)によってなされるものであって、回避不可能な運命(貧困)を正面から受け入れ、それに自分の意思で対応することができるという意味で、自由に反さない。(私は、エルスターのこの部分の説明の仕方はやや曖昧な気がしている。長くなるし本題と逸れるので保留。)

これまでの内容をまとめておこう。エルスターは、(1)制約や強制がなく、欲求したことを実現できること (2)その欲求が、自律的であること を要件とした上で、そのような欲求ドアの数(と重要性)を「自由」の尺度として定義していた。(1)だけでなく(2)が問題となるのは、ある欲求はそもそも適応的選好形成のような働きによって、衝動的に格下げ、あるいはそもそも消去されていることがあるからだ。では、ある欲求が「自律的である」とはどういうことなのだろうか。

自律的であること

エルスターは『酸っぱい葡萄』のなかで「自律 autonomy」という語を最も重要な語として使いまわしているにもかかわらず、その明確な定義を提示していない。むしろ、「自律について十分に満足のいく定義を提供することはできない。……せいぜい、具体例に頼った定義を考えてみることくらいだろう」(p.32)とさえ言ってしまっているのだから清々しい(読み手からしたら困ったものではある)。

エルスターの論法はこうだ。自律は『酸っぱい葡萄』のなかでは「ただ残余として」、すなわち自律を欠いた選好形成のメカニズムを羅列した後で、それらを排除した後に残るものとして、定義することにしよう。「自律的な選好形成のメカニズム」の集合をAとすれば、Aの補集合(not A)を明記して、Aの補集合の補集合(not "not A")はAにほかならないというロジックを用いよう、というわけだ。

というわけで、エルスターが「自律的でない選好形成のメカニズム」として挙げるものの代表例が「酸っぱい葡萄」、すなわち適応的選好形成ということになる(他にはフレーミングによる選好変化、希望的観測、推論の失敗が挙げられている)。

エルスターは「自由」に自律的な欲求にもとづいて選好が形成されることを求めているが、ここまでの整理からわかるように、これはこれまで検討してきた中でもかなり強い「自由」の定義である。休日の過ごし方に悩む貧困者は、自分には散歩、家でゴロゴロ、日雇い労働、ファミレスに外食、あるいはそれら以外の手の届かない選択肢——高級フレンチや不動産購入——が存在することを自覚しつつ、適応的選好によって衝動的に高級フレンチや不動産購入の格を下げることなく、すべての選択肢のなかからどの選択肢を欲求するかを決定する。すなわち、高級フレンチや不動産購入は不可能である、という外的条件に影響されることなく、自律的に選好を決定する((2))。そして、そのなかから選ばれた選択肢が実現可能((1))ならば、彼はエルスターの言う意味で最も「自由」な存在だ。(しかし、ここまで厳しい条件つきの「自由」は現実には絶対に実現しそうにない。実現不可能なものを含めたすべての選択肢を知ることは、人間の認知能力にはどう考えても不可能だからだ。しかも、これが実現するためには、適応的選好形成ではなく計画的性格形成によって自律的に高級フレンチではなくファミレスを選好するよう自分を躾ける必要があるのだが、現実には先に述べた「曖昧さ」によってそもそも計画的性格形成と適応的選好形成を区別することは不可能なのでは?と私は思う。)

自律と厚生のトレードオフ

『酸っぱい葡萄』が適応的選好形成という現象に着目しているのは、エルスターがそれに伴う自律と厚生のトレードオフについて考えているためだ。選好を適応させ、「あの葡萄はすっぱいんだ」と言い張る狐や、「高級料理は味が薄いんだ」と言い張る庶民は、そうすることで自らの幸福(厚生)を守っている。言うなれば、適応的選好形成は経済社会を生きる人間の自然な防衛機制である。

しかし、エルスターはそのようにして厚生が守られる背後で、自律が失われていることを指摘し、それによって厚生と自律のバランスという観点から社会的な幸福について考えるための道を整備した。最近は「ナッジ」のような手法で人々の厚生を高めてあげる、いわゆるパターナリスティックな手法が平然と取られているが、その問題点を考慮するために自律について考えることは欠かせないのだろう。その意味で、「自由主義的リバタリアンパターナリズム」の問題点について考えるうえでも、エルスターの論考は重要なのだろうと感じた。

本書でエルスターが論じているように、適応的選好形成の問題を解決する(自律と厚生の適切なバランスを取る)ためには「自律とは何か」について明らかにする必要がある。上の文脈で言えば、いかなる場合であれば「市民が自分自身の幸福の判定者となる」ことができるのか、その条件を考察する必要があるだろう。それを後回しにしている限り、人々の主観的判断を(適応的選好形成の可能性にもかかわらず) 盲目的に信じるか、それを無視してパターナリスティックに介入するかという二択にしかならない。われわれが政策について、さらには人々の生活について考える際には、適応的選好形成が突きつける「自律」の問い(すなわち「広い合理性」の問い)を回避するわけにはいかないのである。

『酸っぱい葡萄』訳者解説「『酸っぱい葡萄』の背景と射程」(玉手慎太郎)p.356


長くなった上に、最後の方は完全に力尽きてかなりやけっぱちになっているが、ひとまずこれで「自由」をめぐる旅の足をひとまず止めることにしようと思う。

2022/02/17


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