それだけで人生は台無しになる (短編小説)

火加減に失敗して料理が台無しになった。肉の表面は焼け焦げているのに中まで火が通っていない。ずぶずぶ血の混じった肉汁の上に脂が浮いている豚ステーキ、そいつに旦那が箸を突き刺して、悪いね、これじゃ、食べたら腹を壊しちまうよ、と言い出しそうな顔をした。豚肉の黒焦げ部分の奥から赤い肉身(血が滴る)が、顔を覗かして、そりゃ、腹は壊れますよ、なんてたって、おいら、火が通ってないんですもの、と笑っているみたいだった。でも誰も笑っていなかった。時計の針のチクチク言う音が心臓で鳴っているみたい。いっそのこと思ってることを口に出して不平を漏らしてくれればありがたいのに、旦那は「これ豚肉だよね?」とだけ言った。
「うん、豚肉」と答えると
「まだ生だね」と言う。
「そうだね」
旦那はそこで無言でさっと立ち上がって、生焼けのステーキ二皿(私の分と旦那の分の二皿)にラップをかけて、電子レンジの中にぶち込んで、二分半加熱した。電子レンジはジー…と音を出していた。旦那も私も黙ったままだった。やがて時間が過ぎてチンという電子レンジの呼び出し音がなって、二つの皿を手に持って、「あちちち」と言いながら、テーブルの上に置いて、着席した。一仕事をしましたという顔をして、ニヤリとした。ラップを取ると水蒸気が飛んで肉の美味しそうな匂いがしたけれど、電子レンジでチンをすると、肉が固くなってしまって美味しくないのに、どうせならもう一度火にかけた方が良いのに、と思った。レンジでチンの方が簡単なのは分かるけど。態度が嫌味っぽい。ニヤリと笑った顔が腹立つ。善意に見せかけるのは得意なのよね、この人。まあまあ豚肉の生肉なんか食えないし、火を通すのもフライパンもっかい準備したりしなきゃいけなくて、洗い物だって増えて面倒なんだから、この場合はレンチンは当たり前だよねと思う半分せっかく作ったものを無造作に断りもなく電子レンジに放り込まれて気分わるいわと思う半分、人生は料理が台無しになったときに台無しになっていくとおかしなことを思ってしまう。機嫌の取り方が下手くそな男を旦那にしたせいでと憂鬱になる。旦那の方こそやはりきっと料理下手な女を妻にして塞ぎの虫だろう、どうも歯車って、人格や性格に関係のないところの、実生活の面から狂い始めていくような。
性格、思想、人格、二人はばっちり合っていてどんな意見も双子みたいにばっちり合うよね、って友人たちからは言われていたけど、知らないうちに、私の料理下手や掃除下手のせいで、男の想いの冷めていくのを感じて、そうだとしても、男の方が家事を手伝わないのはいかがなものかと、私にばかり押し付けているのだから、こちらだって一言、二言、言ってやりたいのだけど、この人には何も言えない。
何も言えないように、人を黙らせる人、大学の初対面のころは、その堂々とした態度に威厳を感じたのに、今にしてみると、私の方で気軽に何かを言うことができなくて、かえって、嫌になっちゃう。ただ威張りっぽくしてるだけじゃないのか。背が高くて声が低い。最近は少しお腹がでっぷりとしている。大学の頃から子分みたいに友人を引き連れている。社会人になっても後輩を飲み会に連れてって社会人とは、かくあるべし、などと説教して悦に言っている、というのを彼の同僚から聞いたりした。そりゃ学生のころはね、そのくらいのことをリーダーシップなんて思えてかっこよく見えて頼り甲斐のあるように感じるけれど、今にしてみると、ただマウント取ってるだけで、後輩にいつかパワハラで訴えられないかとちょっと心配になるよ。パワハラ、ほんとなんでもかんでも騒ぐ人ばかりだから。くわばらくわばら。
妻の私だって息詰まりするんだから、同性の職場の後輩なんてたまったもんじゃないだろうな。笑顔って大事なのに。ニヤリと笑うあれじゃなくて!にこやかなさがないのよね、この人。でも昔からアハハと笑い合ったことってあんまりあったようななかったような。昔からこんなふうだったような。
後悔したくなかったのに後悔していく。
ラップを取ろうと思って皿に触ると皿は思っている以上に加熱されていて「あっつ!」と思わず言ってしまった。
「あ、ごめん」と旦那が言った。
「いや別にヒロくんが悪いわけでないでしょ」
「そうなんだけど。あっためたの俺だし」
「レンジであっためると肉って固くて不味くなるよね」
「うんそうだね」
「でも生だったらお腹壊すしね」
「うん仕方ないね」
「…」
「…」
「レンジでさご飯もチンするとパサパサになって不味いよね」
「うん、不味いね」
「電子レンジって電磁波でタンパク質ダメにするからね。なるべく使わない方が良いんだよね」
「うんそうだろうね」と旦那は生返事だった。
「まあ、私が料理を失敗したのが良くないんだよね」
「あんまり気にすんなよ」と旦那が言った。あんたが少しでも作る気さえあればこんな問題ないじゃないのと思ったが口には出さなかった。外からごうごうと風が吹いた。暴風雨みたいだった。突然の風に驚いたし、今の時期だとまた花粉が飛ぶだろうし、布団も服もしばらく風と花粉で外には干せまい、部屋干しすると、家の中のお洒落な雰囲気が損なわれていやよね。
ただでさえ狭い2LDKの家の中だっていうのに。
そこかしこに旦那が読んでいるゴルフやら車やらの雑誌が乱雑に机や床、ソファの上に置かれている。今だって旦那はその散らばった雑誌の一冊を開いて、肉を食いながら読んでいる。ポタリと肉汁が垂れて、あー、本のページが汚れていく、本についた油の汚れって、すごく不潔で私は嫌いだから、食事中は読書しないんだけど。
「ねえ読むのやめたら?」
「んー?んー」と旦那は曖昧な答え方をした。私は黙った。風がごうごう吹いた。
「ほらポタポタ落ちてる。汚いよ」
「んー」
雑誌はどんどん汚れていく。別に私が読む本じゃないから良いけど、家の中のものが汚れていくのは嫌だった。食事中に雑誌を読むから生返事しかできないんだ。彼は実家で食事マナーを学ばなかったのかな。子どもができたとしてそういうのを真似するのは嫌だな。
ちゃんと話せればこういうことも解決できるのに、お互い仕事終わって帰ってきてからじゃ、あんまり話す時間も取れない。これでこのまま子どもを作ってしまって良いのだろうか。今なら子供のいないうちだから、ある程度の引き返しはきくかもしれない。でも両親にはなんと言おうか。というかこんなことを考えてもねえ。もともとは好きで結婚したわけだし。
不満の原因は、話し合いの不足のせいだろう。今日あたりしっかり話せないかしら。話せば。…そもそもこの人としっかり話し合ったことってあっただろうか。一体何を話していたんだろう。吹けば飛ぶような話題ばかりだった。でもそのときは心が高揚して楽しかった。身も心も焼けるような日々だった。沈黙すると気まずくて必ずどちらかが何かを話した。でも全て泡みたい。水面のあぶくは急流に消えていく。大好き大好きと言っていれば、彼は、おう、俺も好きだ、と言う。過ぎてしまえばその程度のこと。交際期間半年。今にして思えばとても短い。熟慮することを恐れて、お互いを運命だと決めつけて、勢いのままに燃えていった。
…恋愛。肉の表面だけ焦げるような熱烈な恋愛結婚だったのに。中身は生のまま。
価値観が合ってると友人知人から言われても、それは全て表面的なことだった。どんな歌手が好きかとか、どんな本が好きかとか。そんなことはバッチリ合ってたのよね。でも、全て表面上のことだ、生活に根ざした考えとか、生活習慣を、そもそもすり合わせしないで結婚してしまった。中身は生肉。食べてしまえば腹を壊す。子どもができれば後戻りできない。
後戻りしたいの?一体どこに戻ると言うんだろう。二人の貯金を切り崩してこの狭いアパートに引っ越ししてきたんだ。お互いの職場に近いから便利ね、なんて言いながら、不動産のホームページをたくさん調べて、日が当たらなそうじゃない?でも立地良いよ、広い公園あるから、一緒に散歩したら楽しそうじゃん?犬とか買ってさ。犬も買わなかったし、散歩すら一回もしていないじゃない。今からでも。肉に熱を無理やり通すの?取ってつけたようにワンちゃんを買って散歩に行くの?共働きなんだから飼えるわけない。誰も面倒見れない。広い公園があってもなくてもどうでも良くて、結局この家に決めたのは、立地と家賃がちょうど良かったからじゃない。現実ってそういうことでしょ?散歩したり犬を買ったり大好きって言い合ったりするのは、現実という中身の、外周にあるお遊びに過ぎなかったのよ。外周部分が焼けこげて、現実の実際は生のまま未加工で結婚してしまって。実家はこの家からも職場からも遠いから助けてももらえない。
彼との関係をもっかいあっためなければならない。一度台無しにした料理をレンジであたためるように。今更大好き大好きなんて言い合ったからって感情もなければ、生活もついていかない。現実を詰め合わせて、せめてお互いが快適になるように話し合わないと。
私はレンジで加熱して固く不味くなった肉を食った。ガチガチと歯に引っかかる。柔らかくない心地よくないうまく咀嚼できない。美味しくない。無理やり加熱したものはタンパク質が壊れてしまう。私たちも、無理やり話し合っても、お腹は壊さないまでも、夫婦の情というものが壊れてしまうんじゃないかしら。ああ、お肉が美味しくない。元はと言えば私の料理の失敗のせい。それだけで人生は台無しになる。

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