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興味のあること:小説、戯曲、物語、詩、執筆、古典語

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  • 水龍と刀鍛冶

  • Sの短編小説

  • Sの日記

  • 家族(Sの小説)

  • 花見の思い出

最近の記事

その日 (短編小説)

田辺優一は生きる気力がなかった。なぜ生きているのかわからなかった。今日は病院に行って降圧剤をもらってくる日だった。毎日降圧剤を飲まないといけないのが嫌だったが、とつぜん飲むのをやめてしまうと「命にかかわりますよ」と読んだ本に書いてあって、やめるにやめられなかった。 仕事を定年退職してから、外に行く用事は医者通いくらいだった。医者通いもしなくなったら、どこにも外出しなくなって、それこそ家の中でずっとこもりきりになる。妻は俺を邪魔者扱いしている。やっぱり病院くらいは、自分の健康の

    • 友だち (短編小説)

      かじかんだ手をゆっくりと焚き火にかざして、大男は「ふぅぅぅ…」と長いため息をついた。もう夕方になってしまった。夜になるにつれて、森のなかの気温はぐんぐん下がっていった。火の番をしながら、きょうはもうここで夜を過ごさねばならないと思うと、恐ろしかった。 「まったく。森に迷うなんてついてないよ」と心のなかでつぶやくが、返事をする者はもちろんいなかった。焚き火がパチパチ鳴いていた。 彼はまだ明るかったうちに拾っておいた枯れ葉や小枝を焚き火のなかに放り込んで、火が消えないように注意し

      • つぎはぎ (詩)

        つぎはぎの記憶に ぽつりぽつり 空想がまじって あゝ子どもの頃 たしかに僕ら 小鳥のように 毎日銀河を巡回しました 月のすみに 木の枝と枯れ葉を敷いて 秘密基地をつくり うまい棒を食べながら 秘密会議を開いては 悪人たちと大戦争 怪獣どもをやっつけて 悪霊どももしりぞけて 僕らが地球の平和を 守っていました * 海の上を歩く一条の光線 素直でしなやかな 友だち想いのこころ 縁側から見える里山 それらの途方もない片田舎は 全て小さな

        • 魅惑的な毛艶の犬

          昼とも夕方とも判別しない時間、軒下にて午睡していると、魅惑的な毛艶の犬が、私の前に現れて、くわぁと欠伸をした。私は寝そべりながら犬ころの毛なみに見惚れていた。犬も庭の木陰に優雅に寝始めた。私はムクっと起き上がって、伏せの姿勢を取っている犬を撫でようとすると、くるるるるるると唸って、私の手を遠ざけた。 私は「おいお前どっから来たんだ」と聞くと犬の奴は「なに西の方から来たのだ」と返事をした。私は犬が口をきいたのに多少驚いたが、まあこれほど毛艶の良い犬なのだから口をきくくらいの芸は

        その日 (短編小説)

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        記事

          いずれはまた (回想)

          たんぽぽの花が空き地いっぱいに咲いている。一部は真っ白の綿毛になっている。茎を折ると、すこしべたべたする、たんぽぽの匂いのする汁が手につく。ごしごしTシャツの袖で指をしごいて、汁を拭きとる。花の匂いを嗅いでみる。たんぽぽの鈍臭くてやさしい甘い匂いがする。 「ねえねえたんぽぽって食べられるよね?食べていい?」と母に聞くと 「洗って茹でないとお腹壊すからダメ」と母が言う。お腹を壊すのは嫌だし、母親の言うことなので、たんぽぽを口に入れるのはよした。 空き地右がわの斜面にはつくしがた

          いずれはまた (回想)

          水龍と刀鍛冶⑥

          スサノオは水龍を討つ剣を持って、高天原を降っていった。それは過去と暗がりと零人ぼっちの道であった。高天原では、時間の流れが極めてゆるやかなために、すべての生命の御魂が躍動している。クニタマが煌めいている。風下では小さな小さな土埃が揺らいでいるだけ。 スサノオはアマテルの弟だった。偉大な兄を持ち、己の腕力は兄にも劣らぬ。兄ではなく俺が水龍を討つのは当然のことだった。彼がこのように自尊心を持ってしまったのは、心に我欲をまとわせて初めて高天原を降っていくことができるからである。肉を

          水龍と刀鍛冶⑥

          水龍と刀鍛冶 ⑤

          「天の空に翳りが見える」とキミネと他数名の巫女たちが予言した。そしてアマテルは、その預言のとおりに、人々の前からしばらくの間、姿をお隠しすることになった。 アマテルがお隠れになると、雲は隙間なく空を覆い、地上も天上も真っ暗闇になった。 人々は陰の気の増すことを知って、陽を求めずに、黒のなかに静まった。アマテルの勅使たちは、光の象徴であるアマテルと共に、光のうちにお隠れになった。 人々にとって、それはアマテルのいない、つまり、地上を照らす太陽のいない世界だった。光を求めて、泣き

          水龍と刀鍛冶 ⑤

          それだけで人生は台無しになる (短編小説)

          火加減に失敗して料理が台無しになった。肉の表面は焼け焦げているのに中まで火が通っていない。ずぶずぶ血の混じった肉汁の上に脂が浮いている豚ステーキ、そいつに旦那が箸を突き刺して、悪いね、これじゃ、食べたら腹を壊しちまうよ、と言い出しそうな顔をした。豚肉の黒焦げ部分の奥から赤い肉身(血が滴る)が、顔を覗かして、そりゃ、腹は壊れますよ、なんてたって、おいら、火が通ってないんですもの、と笑っているみたいだった。でも誰も笑っていなかった。時計の針のチクチク言う音が心臓で鳴っているみたい

          それだけで人生は台無しになる (短編小説)

          ちーくんと観覧車 (短編小説)

          ちーくんは観覧車に乗りたかった。テレビの画面にディズニーランドの観覧車が映し出されて、そこに乗っている人々は楽しそうに地上を見下ろしていた。ちーくんは高いところに行ったことがなかった。山にも高層ビルにも観覧車のてっぺんにも行ったことがない。そもそもちょっとした段差でさえ車椅子のちーくんにとっては一苦労だった。腰から下は生まれたころから萎えていた。最近では右手の親指あたりに麻痺の症状が広がってきていたから、車椅子をこぎだすとき、両腕の力のバランスが崩れて、車椅子をまっすぐに進め

          ちーくんと観覧車 (短編小説)

          憲法改正 (短編小説)

          「憲法改正されたらやばいんだよ。マジで。人権がなくなるんだぜ?」と勝也は大声で言った。 「声でかい」美代子は爪を切りながら勝也を注意した。パチンパチンと爪が規則正しいリズムで切り揃えられていく。しかし、右足の人差し指の爪を切るのに手間取って彼女はチッと舌打ちした。 「緊急事態条項もやばいんだって。マジで」勝也はまだ騒いでいる。旦那の語彙力の少なさに美代子は辟易した。この男は政治に口出しをしているが、足元の生活のことを考えない。低学歴の無職のくせに、と美代子は思った。 「憲法と

          憲法改正 (短編小説)

          たまご (短編小説)

          1 コップが満たされることはなかった。ひっきりなしに少女はジュースを求めた。 「ジュースをちょうだい」少女が言った。萎れた観葉植物の周囲に、枯葉が散っていた。枯葉が片付けられることはなかった。 記憶の中身だけは萎れなかった。母親は少女の言葉に耳を傾けなかった。 「ねえお母さん、ジュースをちょうだい」少女は繰り返した。虚ろな目の母親は、身動き一つしないで、体育座りでソファの上に座っている。顎を膝の上に乗っけて、両腕で両膝をしっかり抱え込んで、自閉的な卵のような形になっていた。

          たまご (短編小説)

          友人 (短編小説)

          友人がキリストに身を投げ出した。その話を友人は話した。 「裸になってイエス様に従おうと思ったんだ。心の底からイエス様に従おうと思ったんだ」と彼は言った。言葉は少なかったが目が爛々としていた。 彼の顔は火傷でずるずるになっていた。 「しかしよくあの火事で生き残ったね」と俺は言った。 「イエス様のおかげだよ。俺はもう一度命をもらったんだ」と彼は本心から言っているようだった。 俺は虫歯の痛みを感じたが、彼の火傷でずるずるになった皮膚を見ていると、歯痛くらいで心を悩ましているのが馬鹿

          友人 (短編小説)

          夢とうつつ (短編小説)

           一貫性のない、思考にもならない、支離滅裂の混乱した精神、夢から半分目覚めたけれど、まだ完全には起きていなかった。もぞもぞ布団の中で身体をよじらせると、足先がポカポカしていた。布団の中もポカポカしていた。支離滅裂の混乱の余韻を味わうように、夢の続きを空想しようとしたが、そもそもどのような夢だったのかすっかり忘れてしまって空想することもできない。  ただ一言だけなんとなく思った。   「なぜ俺はこんなふうになっているんだ」 ずぶ濡れの雨のイメージにその一言を叫んでいる俺がい

          夢とうつつ (短編小説)

          ゴンドラ (詩)

          喉と胸をゴンドラで渡る ゆるやかな丘が見える お陽さまが伸ばした影に 舵取り任せて湖をゆく 「時化になりそうだよ」影が言う。 「耐えなくちゃなあ」僕がぼやく。 「悪いねえ。荒れるよ」影が言う。 「耐えなくちゃなあ」僕はぼやく。 やがて時化がやってきて ゴンドラひっくり返し お陽さま消えて闇になる 影がにんまり笑ってる

          ゴンドラ (詩)

          山葵 (短編小説)

          寿司の中に山葵が入っていた。優子は顔を赤くして苦しそうに咳き込んで、たまらず口の中の寿司を手のひらの上に吐き出した。孝之はそれを見てティッシュを数枚取って優子に渡した。優子は、吐き出したものをティッシュに包んでゴミ箱に捨てた、フーフーと息が荒くなっていた。孝之は「大丈夫?」と言いながら彼女の背中をゆっくりさすった。しばらくして落ち着くと 「山葵(ワサビ)抜きって私お店にちゃんと言ったよね?」優子が言った。 「うん。電話でも言ってたし、お店でも店員さんにちゃんと言ってたね」孝之

          山葵 (短編小説)

          お前 (詩)

          一切合切を 封筒に入れてお前に郵送した。 「届け、届け」と願いながら未着のままに永遠が過ぎた。 「封筒の中で解放される日を待つ。俺は捕虜なんだよ」と封筒の中身が言った。 「惨めだね」と私は電話越しに相鎚打った。打たれた相鎚カーンと響け! 「うん。惨めなんだ」中身の声、電話越しにカーンと響く。一切合切は風化してカラカラになる。 「仕方ないね」私はたまらくなって慰めた。 「うん…」悲しげに中身の一切合切がこたえた。開封されて慰められる日は来るのかな。 会話が永遠に続いて お

          お前 (詩)