満たされぬ者の幸福
「本物の幸福を味わえる可能性のある人生とは、何者かになるプロセスである。」ギリシア危機の際に財務大臣を務めた経済学者、ヤニス・バルファキス氏の著書『Talking to my daughter about the economy(邦題:父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。)』で最も印象に残ったフレーズだ。
本書は経済学について書かれた本なのだけども、文学的なエッセンスが随所に散りばめられており、小説のように楽しく読ませてもらった。また、「経済学という公式のある神学が支配する世界でいか幸福に生きるか?」という問いに対する手引書・指南書の側面もあり、哲学的な思索を深めるのにも役立つであろう。
さて、冒頭で触れた幸福のことについて、少し真面目に考えてみたい。
ギリシア語で「幸福」を意味する「エウダイモニア (εὐδαιμονία)」には「花開く」という意味がある。
花が咲いた状態(満たされた状態)ではなく、何が咲くか分からない状態、何者かになるプロセス、未来に期待することに幸福の源泉があるとする見方は非常に面白い。
倫理の目的は幸福を得ることにある、とする幸福主義の立場では、徳の追求を「最高善(=幸福)」として位置づける。アリストテレス曰く、徳とは、人間が人間である故に、魂に備わる優れた性質・優秀性・卓越性のことである。この徳は具体的には「中庸」(極端でないこと、偏っていないこと、過不足を調整するもの)と呼ばれる。
例えば、「勇気」という徳は「恐怖と平然」に関する中庸にあたり、「節制」という徳は「快楽と苦痛」に関する中庸にあたる。
アリストテレスは、この徳の追求(=中庸を身に着けること)を幸福とし、その最高善を、他の一般的な善行と明確に区別し、善のヒエラルキーの頂点に置いた。
このように、幸福というものに関連した小難しい話は古今東西色々あるのだけど、僕が注目したいのは、J.Sミルが、「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。それと同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。」という言葉を残しているように、先人達が幸福を必ずしも、「満たされた状態である」と定義していないことだ。辞書には、幸福の意味について、「満ち足りていること。不平や不満がなく、たのしいこと。また、そのさま。しあわせ。」(goo国語辞典より)と書いてあるのにも関わらず。
結論を先に言う。
エウダイモニア的に見ると、僕は結構幸福な部類だと思う。
この前書いたように、「家族」という概念領域における孤独の中で家庭を渇望する僕は、満ち足りている状態には程遠い。事業にも失敗し、起業家というカテゴリーの中でも、僕は殆ど惨めな敗北しか経験していない。ここには書けないような手痛い失敗もしてきた。財産もなければ、収入も大手通信会社に勤めていた頃の半分にも満たない。何か大きな実績や成果を残したわけでもない。とにかく、世間一般がイメージする成功という括りで見れば、僕のことを成功者だと思う人は殆どいないだろう。そして、僕自身も成功しているなんて、これぽっちも思っていない。
それでも、僕は幸福だ。
満たされていないけれども、幸福なのではなく、満たされていないからこそ、幸福なのだ。何故なら、僕は、冒頭に書いた「何者かになるプロセス」を、悩み、苦しみながらも、人間らしくちゃんと歩んでいるからだ。
僕は満たされない日々、葛藤する毎日を心から楽しんでいると思う。
いつか、この渇望が満たされる日を信じて。
聖書には、「心の貧しい者は幸いである」とある。
幸福に関する逆説的な言説として、もっとも有名なフレーズの一つだろう。
英語では、Blessed are the poor in spirit. for theirs is the kingdom of heavenとなるのだけれども、これを倒置のニュアンスも含めて直訳すると、「霊において空白のある者は、とても恵まれている。何故なら、天の御国は彼らのものだから」となる。霊の空白故に、霊の領域である天の御国がその人の内に入り込む余地がある、ということだ。
満たされていないことは、必ずしも不幸に直結しない。
そして、満たされていることが、幸福に直結するわけでもない。
僕は、中途半端に満たされた紛い物の安っぽい幸福より、本物の幸福を追求したいと思う。
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