お母さん
私の幼い頃の思い出を
覚えているだけ
このノートに書き留めておきます。
満州からの手紙#156「運動会」
お母さん
田舎の運動会が町の小学校の運動会と違って、その村の年中行事中祭りと共に最も楽しいものの一つであることは言わなくても解っているでしょう。
私が生まれて初めて小学校の運動会を見に行ったのは、私がお母さん達と宇和島の城下町へ出てくる一年前の十月だったと思います。
しかも私はお父さんに連れられていったのです。
「学校わ随分遠いんだナ」そう思ってお父さんの後からヒョロリヒョロリついていきましたよ。
あの杉坂を昇ってしまえば学校でしょう。
教員室の裏に赤いトビサゴの花が一面に咲いていましたよ。
そして丸い青い実がパクンパクンとわれて、中からトビサゴの種が飛び出すのを不思議に思ってあかづながめたものです。
運動会で一番私の記憶に残っているのは
「宝さがし」と言うのです。
これは来賓競技でお父さんも目隠しされて飛び出してゆかれました。
運動場の到る所へ敷島だの朝日だのと言った煙草をまき散らせていて、それを両側の来賓が目隠しして手さぐりに尋ねてゆくのです。
両方からはってゆくので頭をぶつけて尻もちをついた人が沢山ありましたよハーーーーーーーー。
お父さんはあの時、敷島を二個ひらってかえられました。
静かに目をつむると、あの時のお父さんの嬉しそうな笑顔が今も胸裏にハッキリとうかんできます。
それからお弁当は、おすしを扇子形と櫻形におしぬいたもので、おかずの中で一番おいしかったのは「かまぼこ」でした。ハーーーーーーーー。
今でもあの学校を通るたび運動会の思い出が蘇って来ます。
私は町の小学校へ入学して第一回の運動会に二等でしたネ。
算術帳が二冊に半紙が五條、これが二等賞の賞品でした。
二年生の時も井上輝義君が一等で私が二等!!
三年から六年迄はいつも四、五等で賞品は貰えなかったです。
尋枝校へ通うように成ってマラソンが急に早くなったのには自分も驚きました。
運動会は二回とも一等賞で、その上十一月の南予小学校競技大会には補選手に成っていましたから。
中学へ入学と共に競技の腕前は一層上がりましたネ。
四百米と棒高跳び(二米七〇)が私の選手課目でした。
運動会ではよくメダルをかせいだものです。
友達や皆に送ったあのメダルが、今頃はどうなっているでしょう。
きっと私を恋しがっているに違いありませんよ。
【投稿者より】
学生時代の忠勝さん、文武に長けた強者だったようです。
当時宇中(現・愛媛県宇和島東高校)柔道部での忠勝さんの活躍を記した文献が残されていましたのでご紹介します。