短編小説: 初夏色ブルーノート

 初夏の陽射しに眩しい白いビル群。その中にぽっかりと口を開けたように黒く映える入り口があった。地下へと続く階段。その前にはの黒板看板が立っていた。

 喫茶:ジャズ・ハノン

 チョークで殴り書きされた文字に、何故か惹かれた。いや、店名の懐かしさに惹かれたのかもしれない。通りすがった私は吸い込まれるようにして、ほの暗い階段を降りた。

 少し古びた感じのドアを押すと、ドアベルがカランとアルトの音を奏でる。次いで店主の「いらっしゃいませ」の声。これはテノールの甘い響き。店内には静かにジャズ。ピアノの旋律に昔が想い出され思わず目を細めた。

 間接照明で灯される店内は、喫茶店というよりは、バーのように見えた。カウンターと10に満たないこじんまりとしたテーブル席。カウンター内にはグラスではなく陶磁器が並び、酒やリキュールの代わりにローストされた豆や茶葉の入った瓶が並ぶ。珈琲の香りが漂う空間は紛れもない喫茶店ではあるのだが、空気感がどうにも夜をイメージさせる。不思議な酩酊を覚えながら、私はカウンターに収まった。

 外は暑かったので、アイス珈琲を注文しようと店主に目配せをする。意を得た相手は意外と若いが、落ち着いた印象を受けた。白シャツに黒のベストと蝶ネクタイといった出で立ちだからだろうか。そんな姿もバーにいる気分を掻き立てた。

 アイス珈琲をと言いかけて、私は口をつぐんだ。こういった喫茶店ならばあるかも知れない。メニューで確認もせずに、私は智昭と別れてから久しぶりに想い出の品を注文した。

「ウインナー珈琲をお願いします」
「畏まりました」

 店主の手元をぼんやりと見ていると、聞き覚えのある音が流れ始めた。「Tea For Two」邦題は二人でお茶を。初めて智昭が聴かせてくれたジャズ曲だ。

 智昭と通った喫茶店は開放感のある明るい店だった。私はいつもウインナーコーヒー、智昭は毎回違った飲み物。

「明子はクリームが好きなの? いつもそれだよね?」
「好きって言うか、コーヒーだけだと苦くて飲めない。ウインナーコーヒーなら、甘くなるし、飲みやすいから」
「じゃあ、紅茶とかジュースにすればいいのに」
「そこはね、大人ぶりたいの!」
「はぁ? コーヒー飲めたら大人なの?」
「いいじゃないの! 智昭のバカ!」
「明子のヒステリー」
「うるさい!」

 学生の戯れるような付き合いから恋愛関係に進んだのは、互いにピアノを続けていたからだ。

 独りで弾くクラッシックに飽きて、私達はふざけて連弾を始めた。その頃にジャズの虜になった。クラッシックには無い魅力が智昭を魅了し、次第に私も取り憑かれたように曲を聴き始めた。

 最初は往年のプレイヤーの名曲を聴いた。何曲も何曲も。原曲があれば聴き比べる。何度も何度も。その上でピアノ曲を耳でコピーした。ジャズの基礎に適したハノンを集めた教本のジャズ・ハノン。二人で同じ本を見ながら手技を反復して、耳コピした曲に挑戦した。

 同じ学校の私達は音楽室に入浸った。一台のピアノを二人で弾く。馴れるとセッション紛いの事もした。その頃には、音楽室の恋人と校内では有名になっていた。 

 想い出に耽っていた私の前に、静かにカップが置かれる。慌てて会釈し、手元にそれを引き寄せた。珈琲にたっぷりの生クリーム。上には銀色の星のようなアラザンが散っている。

 あの店はカラフルなチョコレート・スプレーだったな。

 そんな事を思いながら、ひと口、珈琲と溶けたクリームの部分を啜る。あの頃よりも少し苦い。その味は辛い記憶にも似ていた。

 私達はいつもの喫茶店にいた。暑くなり始めた季節。選んだテラス席では清々しい風が吹いていた。

 私はいつもと同じ。智昭は珍しくコーヒーをブラックで。少し違う空気が流れ、私は楽しい時間が終わるのを予感していた。智昭のいつになく真剣な表情がそれを裏付けていた。

 智昭がコーヒーを一口含み、顔をしかめた。私はそのまま彼を見つめる。視線は合わない。その分、彼が思い悩んだであろう事が判ってしまう。時間をかけて、もう一口、智昭が苦味を飲み下す。そうして、決意した顔を上げる。

「留学しようと思う」
「ジャズ?」
「ああ」

 それだけで充分だった。

 私よりジャズに魅了された智昭。
 ピアノに真摯だった智昭。

 私は知っていた。
 何時か訪れる未来を。

 だから笑って見送ろうとした。

「泣くなよ」

 智昭が困ったように呟く。

 困らせたくないのに。
 泣くつもりなんてなかったのに。
 智昭との時間が惜しい。
 
 それだけ、一緒に奏でた記憶が幸せだったのだ。路を違えるのが辛いのだ。

「智昭のジャズ、大好きだよ」
「知ってる」

 涙を流したまま、私は精一杯に笑顔を浮かべた。初夏の日差しが別れには眩しくかった。

 智昭はその秋、アメリカ留学のために高校を中退し、互いに連絡をすることも絶えたのだった。

 言葉少なく二人で過ごした想い出は、まろい甘味を含んだ苦さを伴う。そう、今、口に含んだウインナー珈琲に近しい。

 二人で奏でた音楽と記憶。懐かしい音に浸りながら、私は想い出の一品をゆっくりと大切に飲み干した。

 会計を済ませ、ピアノの音に後ろ髪を引かれる思いで店を出る。暗がりから明るい日差しの中へ。手で日差しを遮りながら路上へ出てから振り返る。

 耳に残るフレーズ。
 少し癖のある間の取り方。

「智昭、相変わらずだなぁ」

 久々に彼のピアノを耳にした。当時に比べ、音の表情が多彩になった。それがとても喜ばしい。私は「Tea For Two」を口ずさんだ。

  We will raise a family 
  A boy for you and a girl for me 
  Can't you see 
  How happy we would be? 

 智昭を追いかけていたら、この歌の二人のようになれただろうか。いいや、きっとなれなかった。さっきみたいに智昭のピアノを温かい気持ちで聴くことも出来なかったに違いない。

 別れの選択に胸を張れると、自分の感傷に言い聞かせ、私は前へと歩みを進めた。

〈了〉


「カクヨム」さんの自主企画で書いた作品の転載になります。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?