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襟元からちょろり ~大昔に手に入れたラビットファーの処遇について~

 ラビットファーの襟巻を持っている。高校生か大学生の時に祖母がプレゼントしてくれた。その時母が買ってくれたコートも含めて結構いいお値段がしたけれど、約20年経った今でもどちらも現役で着れる。結果としてお安く済んでいるし、古着を出していない分エシカルでもある。
 
 私は毛皮が大好きだ。柔らかい、肌触りがいい、なにより温かい。夏でもカイロのストックが必要な冷え性の私にとって、防寒に適したアイテムはそれだけで魅力的である。ステレオタイプなロシアのイラストで必ずもこもこしている毛皮の帽子、あれが欲しいなと大人になった今でも時々思う。北海道旅行などすると、特に。
 
 さてしかし、ファッションの世界では毛皮はもはや排除されつつある。理由は簡単、アニマルエシカル。毛皮をとるためだけに動物を殺すのか。毛皮のために、劣悪な環境で繁殖させるのは命の冒涜だ。まあ、そういうこと。
 私も賛成だ。食うために殺した生き物の骨や脂や革も利用するというのと、美しい毛皮が欲しいがために生き物を殺すのとは、深く考えるまでもなくなにか違う。
 生きるために殺すのか、楽しみのために殺すのか。だから、極寒地に生きる少数民族が毛皮を手に入れるために動物を狩ることは認められているとかいないとか。
 
 ここで問題になるのが、ノー・ファーの潮流の前に手に入れてしまった毛皮である。手入れしてきたので、当然まだまだ美しくて使える。流行かそうでないか、大袈裟になりすぎるなどの問題はあっても、やはり毛皮を身に着けるとファッションは華やかになる。
 せっかく持っているのだ。既にこの兎は殺されている。人類が過ちから殺してしまった美しい兎の毛皮を、私は最後まで大切に、感謝してとことん使うべきじゃないのか。
 しかし、身に着けた毛皮を素敵だと誰かが思ったら、その誰かは新しく毛皮が欲しくなるだろうか。そうしたら、やはり、私が兎の毛皮を身に着けると、どこかで別の兎が殺されるのに加担することになるのだろうか。

 私は今持っている毛皮の襟巻を身に着けるべきか、身に着けないべきか。悩んで、コートの下につける。これなら私は温かく、誰かが毛皮に目をつけることも少ないだろう。
 毛皮をたっぷり見せつけずに、襟元から、ちょろり。どうかこれで勘弁願えないだろうか。

 補足:リアルファーにしか見えないフェイクファーという技術もある。確かに、20年前と比べるとその技術には驚かされる程の進歩を感じる。しかし、私はフェイクファーなら、もう今後一切購入しないつもりだ。
 フェイクファーは結局はプラスチック。いつかそのフェイクファーを処分するとき、割を食うのは海洋生物だ。痛い思いをする生き物が変わっただけである。それも、フェイクファーの場合の方が、その苦しみはより巧妙に見えにくくされている。
 結局、悩ましい問題から私が自由になれないのなら、そんなファッションアイテムはこれ以上手元に増やす必要はない。

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