分かり合える世界へ。

相手のことをわかりたい、理解したいという気持ちは
相手のことはわからない、理解できないという気持ちも
同時に両立させて、はじめて現象化できる。

自分の現状を見つめ直す期間を過ごしている。
コミュニケーションには特にこだわりがつよく、
なぜこだわりがこんなに強く発動するのか、
その根本には、発達障害の特性に加え、
わたしはだれにも理解されないんじゃないかという不安と
その世界の見方から、経験によって強化された
と、仮説がうまれた。

意識を向けるとそればかりが情報として入ってくる。

相手を理解したい、そうして関わった関係は
「わたしがわかるようにしかわからない」という
分離を生む。

昨日、パートナーとのやりとりが正に仮説を
強めてくれるようなシーンだった

パートナーは自分の語彙をつかって
物事を説明する
例えば、夢を叶えるには何が必要か、と言う話。
興味があってきいていたが、
途中で、同じ単語でも
わたしが理解している単語の使い方と
パートナーが意図して使っている意味が乖離していることに気がついた。

パートナーが〇〇だよね?
って同意を求めてきたときに
「うんとは言えない」と正直に伝えてしまう。

うんと言えないのはわたしの理解がそこまでということで、パートナーのなかでの論説はパートナーの世界で一貫している。
ここで相手のことを理解したいという欲望に
忠実に従うには
「そうなんだね。」「そうだね。」
という応答が選ばれるのだろう。

わたしが理解できないので、その応答はできないのだ。
とてもくどく言葉にするならば、
「そうなんだね、あなたは〇〇と思ってるんだね」
と伝えてもいい。
わたしがわからないことを含めて、わかる必要がないということを受け止められてはじめて交流がうまれる。

気づきが自分に生まれることで、
安直な同意ではなく
考え始めるからだ。

驚く人もいるかもしれないが
わたしの頭の中はこのようにいつもとっちらかってる
発達障害グレーゾーンの涙の結晶だ。
ただ、感じる、ただ楽しむに向かって
生きていく方向に舵を借り始めている。

人との交流はとても疲れる。
でも、とても楽しい。
このわたしが集めた知識の一部は
わかり合いたい先人たちの知恵から学んでいるからだ。

その世界は愛にあふれている。
知識からでなく、愛からコミュニケーションがうまれる。その世界にお引越しするのだ。

いまは、その準備期間。

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