美しい街

父方の祖母が死んだ。

97歳になって2ヶ月、あたたかな春の日差しがさしこみはじめたやわらかな季節に、祖母は空に返っていった。
なんとなく、この季節でよかったなあと思った。

最期は自宅で、わたしの両親に看取られ息を引き取った。
最期のとき、耳はまだ聞こえるかもしれないと思った両親は、何度も「お母さんありがとう」と言い続けたそうだ。

病気で寝込むわけでもなく、老いて食べたり飲んだりができなくなり、心臓が弱り、呼吸がしにくくなり、自然に亡くなった。

この時代にこんなふうに旅立てる人がどのぐらいいるのだろう。

***

わたしが生まれてから、両親は祖父母と同居を始めた。
両親は共働きだったので、昼間は祖父母が家にいてわたしと妹の面倒を見てくれた。
そのおかげで両親とも定年まで勤め上げることができたし、わたしと妹もさみしい思いはしたことがなかった。

18歳のとき大学進学で実家を出るまでずっと祖父母と一緒に暮らしていたので、わたしと妹は同世代のなかでも伊予弁のなまりがどちらかといえば強いほうだと思う。

わたしたち姉妹が実家の鍵を持ったのはごく最近のことだ。
子供のころは帰ると必ず祖父母が出迎えてくれたので、鍵を持つ必要がなかった。

平日は祖母が必ず夕食を用意してくれていた。
いわゆる「昭和の食卓」というおかずが並び、子供には少々渋いものもよくあって、ああ今日も魚の干物かあ、などとぜいたくを言ったこともあったが、今振り返ると本当に恵まれた食事をしていたと思う。

やっとのんびり隠居生活と思ったときに始まった息子夫婦との同居に孫育て、きっと大変な思いもしたことだろう。

わたしたちと同居し始めた頃、祖母は原因不明の体調不良に見舞われ、いろいろな検査もしてもらったらしいが結局何もわからず、最終的には鍼治療で治ったとかなんとかという話を大人になってから聞いた。

呼吸がうまくできなくなったりして、かなりつらい思いをしたらしい。
あの頃は今ほど精神疾患やストレス性の症状に理解も知識もなかった時代でそのときはわからなかったのだと思うが、おそらくそういう類のものだったのではないかと思う。

一生懸命でやさしい祖母だから、多少の無理をしてもわたしと妹をがんばって育ててくれたのだと思う。

それでもその当時に思いを馳せたとき、
「保育園の送迎バスに乗せようとしたらしーちゃんが泣いて泣いて…それがかわいそうでしょうがなかったんよ」と、小さい頃のわたしたちを思い起こし優しい表情で語ってくれた。

祖父母はわたしたちの学校の行事にも来てくれたし、表彰されたときや受験のときなど、わたしたちにいいことがあったときは自分の子供のことのように喜び、おばたちにも自慢してくれていた。

そんな恵まれた日々を過ごすなか、おぼろげな子供の記憶ではあるが、「家に帰ったときお母さんがおったらいいのになあ」と言ってしまったことがあると思う。
あのときはごめんね、おばあちゃん。

***

祖父が亡くなったのは17年前、その後からゆるやかに祖母の認知症は進行していった。

亡くなるまでずっと昼間はデイサービスに行ってもらい、朝晩は自宅で両親が介護していた。

あんなに毎日作ってくれていた食事もだんだんと作れなくなった。
その時々の行動のブームみたいなものがあるようで、夜中に寝室を出て玄関の外に座っていたり、冷凍庫のものをかじってしまったりしているうちに、いつからか曜日や時間、季節もわからなくなった。

実家を出たあとわたしが祖母に会うのは年に数回、帰省したときだけになっていた。
その間だけでもそんなことが何度もあり、夜中に玄関のドアが開く音で気づいて「おばあちゃん、まだ夜やけん寝とこうね」とそっと寝室に連れ戻したりしたこともあった。

両親の苦労はいかばかりかと思ったが、祖母はとても穏やかで、声を荒げて怒ったり、他人を責めたりすることはただの一度もなかったことが救いだった。

そんな状態でも、わたしが帰省すると「しーちゃん帰ってきたんかね」と優しく声をかけてくれた。
帰省のたびに今回はもうわたしのことがわからないかもしれないと覚悟して帰るのだが、いつも覚えていてくれてうれしかった。
たまにわたしたち孫姉妹とおばたちを混同してしまうときもあったが、しばらく一緒にいると必ず思い出してくれる。

帰省したときぐらいしかできないので、おばあちゃんのお世話をできることだけお手伝いしていた。
食事のときのとりわけや切り分け、歯磨き、トイレやお風呂のお手伝い、そのぐらいしかわたしにはできなかった。

そんなときふと顔をあげると、祖母が澄んだ目でわたしを見つめ、にこっと微笑んでくれることがあった。そういうとき祖母は決まって「あんた美人じゃねえ」と言ってくれる。

そのときの祖母がまるで少女のような顔つきではっとしたことがあった。
祖母の手を離れ保育園の送迎バスに乗るたび泣きじゃくったわたしはすっかり大人になったのに、祖母は無垢な子供に戻ったような、不思議な感覚だった。

祖母は歌が好きだった。
わたしたちが子供のころもよく歌ってくれたし、認知症になってからもぼーっとしているかと思ったら何の脈絡もなく突然歌いはじめて、「こんな歌習うたんよ」とよく言っていた。
歌いながらなつかしい日々を思い出していたのかもしれない。彼女の頭のなかにはきっといつでも歌が流れていたのだろう。

祖母の棺の枕元に、おばたちが贈った童謡の歌集を入れた。開いたページは「赤い靴」と「赤とんぼ」だった。
天国でもずっと歌ってね。

***

知らせを受けてからすぐに仕事を調整し、わたしは実家に飛んで帰った。

祖母は本当にきれいな顔で、眠っているようだった。
会ったらつらくなるかもと思っていたが、不思議ととても穏やかで凪いだ気持ちだった。
ただ、こんな日が来てしまうんだなあと思った。

安らかな顔で永遠の眠りについた祖母のまわりに座ってみんなで思い出話をして、髪をなでた。

そんなふうにお別れの時間を過ごせたことはとてもよかったと思うが、祖母の亡骸が家から会館へと運び出されるときはやはり悲しかった。
一緒に過ごしたこの家にもう祖母が戻ってくることはないと思うとあとからあとから涙があふれた。

こじんまりとした家族葬で、両親と大阪に嫁いだおば2人、一緒に住んでいた孫のわたしと妹で行い、義弟とおいっこめいっこには通夜に来てもらって、9人だけで静かに見送ることにした。

会館に着いてから、祖母はお通夜の前にきれいに髪や体を洗ってもらい、お化粧もしてもらった。
久々にお化粧をしたその顔には今より少し若い頃の祖母の面影があり、とてもきれいでいつまでも見ていられた。
納棺をしてくれる方々のお仕事は本当に尊い。
静かな夜が過ぎていった。

そこからお通夜と葬儀をすませ、祖母はお骨になった。
みんなで過ごす祖母との最後の時間、何度も何度もありがとうと言えた。

市の斎場は山の上にあり、そこから見おろす故郷の景色はとても美しかった。穏やかな春のはじまりを告げる空気がたちこめていた。

このとき見た風景をきっとわたしは忘れないと思う。

祖母はこの街で生まれ育ち、たくさんの人と出会い、愛し、愛され、さまざまな試練を乗り越え、たくさんの幸せを与え、受け取って、この街を去っていった。

孫のわたしもまたこの美しい街で生まれ育ったのだ。

こうやって出会いと別れを繰り返して、この街はぐるぐると表情を変えていく。

でもこの美しい風景はわたしがいつかこの世を去るまで変わってほしくない。
天に昇るときにもしもこの風景が見えたら、きっととてもしあわせだ。

***

最初に危篤状態になり、お医者さんから1日ももたないかもしれないと言われた1月末から45日、祖母は本当にがんばってくれた。
それをずっと自宅で支えてきた両親のことも尊敬している。

最期までお世話させてもらえてよかったね、と両親は何度も言っていた。
何度も祖母にありがとうと言って泣く2人に、本当の愛を感じた。お互いの支えがあったからこそここまでやれたのだと思う。

大正生まれの祖母は戦争の時代を生き抜き、戦後に祖父と結婚、二女一男に恵まれ、孫が6人、ひ孫は7人いた。

わたしが知っている祖母は祖母としての彼女だけで、きっとわたしの知らないたくさんの物語が彼女の人生にはつまっていたのだと思う。
この美しい街で過ごした日々の小さな出来事ひとつひとつが、彼女の物語を作りあげた。

おばたちや父の子供のころのエピソードを聞き、わたしの知らない祖母の姿をパズルのピースを集めるみたいにして知っていけたこともとてもうれしかった。

まだまだわたしの知らない彼女の人生のピースがあるんだろう。
でもわたしが知っている彼女の姿も、彼女の人生を彩るピースのいくつかなのだ。
彼女の姿がこの世からなくなった今でも、わたしの心のなかにずっと残っている。

たくさん歌ってくれたこと、
小柄な祖母がエプロンをはずすときの仕草、
おばに電話で祖父への愚痴をこぼす声、
ピアノのレッスンに連れて行ってくれるときに母とは違う道を通り、デパートの地下できれいなお菓子細工を一緒に見たこと、
お友達と旅行に行くとわたしと妹に必ずおみやげを買ってきてくれたこと、
和室の戸棚に好きなお菓子をちょっとだけ隠していたこと、
年老いた祖母のあたたかい手をひいてゆっくり歩いたこと、

祖母のかわいらしい姿があとからあとからよみがえって、温かい気持ちになれる。

***

お経をあげてくれたお坊さんが、愛別離苦、すなわち愛する人と別離する苦しみからは我々は逃れられないと話してくれた。
本当にその通りだからこそ、そばにいられる間にできる限りの愛と感謝を伝えなければならない。

人間ってなぜか近い存在になればなるほど大事なことが見えにくくなって、大切にできなくなったりやさしくできなくなったりするものだ。

そういうときには祖母からの愛を思い出して、自分のそばにいてくれる人たちのことをまた大切に思いたい。
祖母からもらったたくさんの愛を受け取って、それをわたしなりの愛に変えて、まわりに伝えていきたい。

旅立ってからもまたひとつ、祖母から大事な贈り物をしてもらったような気がする。

おばあちゃん、今までありがとう。
育ててくれて、愛してくれて、本当にありがとう。

2022.5.8

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