はぜる!

 つくづく日本語というものは美しいなあと思ってはみるのであるが、それはただ日本語は美しいということだけであって、日本語以外が美しいかどうかは僕にはわからない。

 爆ぜる、という表現は日常会話には早々登場するものではない。少なくとも僕を取り囲む環境の中ではそうである。

 日常的に使われにくい背景を考えてみると、詩的であるために大げさな表現になってしまうから、というのがひとつ上げられる。

 他には、単に爆ぜる、という言葉が持つ範囲がかなり限定的であるからなのかもしれない。
 爆発。と呼ぶものと爆ぜる、は明確にと言っていいほど僕の中のイメージは違う。爆ぜる、に比べて爆発はシンプルに規模が大きい。
 僕にとって境界線を引きにくいのはむしろ小さな規模のそれである。
 どういうことか。

 この行間は焦らしのテクニックを駆使している最中である。しばし期待値を適度に高めていただいて、僕の壮大にして大胆な考察に備えていただきたい。

 小さな規模での、爆ぜる、に至らないものとの境界線とは、例えば、トウモロコシがポップコーンになるポンッとかパンッは弾ける、であって爆ぜる、ではない。惜しいところで爆ぜると呼ぶには少し迫力が足りない。
 ねずみ花火の最後のあれは極小爆発であって、爆ぜる、ではない。爆ぜる、と呼ぶためには偶発的ニュアンスが欲しいところである。残念。
 走行中の自動車のタイヤで小石が飛ぶさま。…これは論外であろう。爆ぜる、には何らかの火力的要因が伴っていてもらわなければ雰囲気が出ない。この場合の小石は、せいぜい、跳ねる、程度のもののはずである。

 爆ぜる、が最も輝く現象、それは…

 「銀杏を炒るときの、ぱあんっ!」

 これである。

 他に爆ぜると表現すべきものは存在しない。爆ぜる、は銀杏を炒るときのためだけに生まれた言葉なのである。
 控え目でありながらも、要所要所でしっかりと存在感を発揮するその言葉は日本語の美しさを一心に背負っているといっても過言ではない。いや、過言ではある。いささか興奮してしまったようである。

 冷静になるためには冒頭部分に立ち戻って締めくくるのがよいと思われる。けっして爆ぜるについてこれ以上述べることが無くなったから舵を切っているのではない。

 その語彙の多さ、表現の豊かさで世界からも評価の高い日本語のおかげで、このようにnoteの記事をひとつ書き上げることができたわけである。
 今回のようなパターンで別の言葉を取り上げようとは今のところ考えていないので暴動などくれぐれも起こさないように切にお願いを申し上げる所存である。

 この物語はフィクション大魔王です。実在の人物、団体、言葉とは一切関係ありません。


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