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映画、という旅の途中で

坂本龍一を偲ぶ「最後の皇帝」

教授、が逝った。
永年の闘病生活の末に。
坂本龍一。
1月に親友・高橋幸宏を喪い、その後を追うように。
今更、この事を書く必要もない、天才的音楽家であり俳優でもあり、そして活動家でもあった彼の訃報が流れた時、私は何故かすごい動揺に襲われた。
それまで彼に対してそれ程の思い入れがあったわけではなかった「はず」だった。
だが、その訃報に私は衝撃を受け、そして何故か嗚咽していた。泣いていたのだ。
何故なのか、それはわからない。
だが、人の死に対して泣いたのは2年半前、父を亡くして以来。まるで本当に大切な人を亡くしたかの様だった。

そんなに坂本龍一を好きだったのだろうか?
いや、多分そうなのだろう。
意識したことがなかっただけ、なのだ。
その時、脳裏を流れたのは彼が遺したテクノ、ではなく、やはり映画音楽だった。
しかもそれは「戦場のメリークリスマス」ではなかった。

翌朝、私は買い置きしていたLDをプレーヤーにセットした。
「ラスト・エンペラー」。
彼がアカデミー作曲賞を受賞した作品。そして役者としても存在感を出した作品。
実に初公開以来の再見。
そう、私の脳裏に流れていたのはこの映画の曲だった。戦メリも当然素晴らしいが、私にとっては坂本龍一とはこの映画の作曲家であった。

ベルナルド・ベルトルッチの大ファンでありながら、何故かこの作品だけは見直す事がなく棚に眠らせたままだったのは、初見で見たときがあまりに素晴らしかったので、色褪せていたらどうしようという、不思議な感情。だが、音楽だけは飽きるほど聴いた。
多分、それだったのだろう。坂本龍一が私の中に永遠に焼き付いていたのは。

壮大なる歴史ロマンである。
中国近代史におけるタブー、清王朝最後の皇帝の生涯。それは日本の傀儡国家・満州国最初で最後の皇帝でもある。愛親覚羅・溥儀の人生もまた日本の天皇と同じ、
「籠の中の鳥」
として、あの激動の時代を生きた。
紫禁城で西太后の命を受け、幼帝になり、一歩も外に出ることを許されぬまま、時代のうねりに翻弄される青年時代。唯一の外の空気を持ち込んだイギリス人家庭教師(ピーター・オトゥール)との師弟関係の中で成長する溥儀(ジョン・ローン)だが、既に清王朝は西洋と中国人同士の内戦により、その運命を奪われていく。

物語は中国共産党が統一した戦後、戦犯として収容所に入れられた中年の溥儀が自殺未遂をする所から始まる。時代が激変し、皇帝から戦犯として繋がれる運命の中で、回想によってその生涯が語られる。
さて、ここで坂本龍一もまた役者として登場する。しかも満州国成立の重要な役柄、甘粕大尉として。
この甘粕という存在も映画的には実に歴史的ロマンに満ちている。大杉栄を虐殺した男として、彼は未だに誹謗される人物ではあるが、同時にロマンを彩る満州映画会社の社長でもあった。ベルトルッチはそんな得体の知れない存在に坂本のどこかエキゾチックな風貌を欲した。
そして同時に作曲家としての才能も。

やがて国民党政府と共産党の内戦で、清国は事実上滅亡、溥儀はメトロポリタンの紳士になるために連れ添う二人の妻(この時代は当たり前だったのだ)と、海外へ行こうとするが、そこに日本軍の密使として甘粕が囁く。
〈満州でもう一度皇帝の夢を見ましょう〉
それは甘く危険な囁きだった。傀儡になるのは目に見えて明らか、それでも彼は中国古来からの傀儡政治、つまり宦官政治に対して反感と怒りを抱いていた故に甘粕の言葉に従う。実母の死に目にも会えず、紫禁城に幽閉された自分をお飾りではなく、家庭教師が言った「紳士」として再び君臨するために。
家庭教師との出会いで溥儀はジェントルマン=紳士の概念を学ぶ。男としての責任、それを完成するための修行こそが人生だと。そして彼は再び皇帝、となる。だが、それは二人の妻を喪うことと引き換えに。一人は自由を、もう一人は阿片によって。

今見直すと実にベルトルッチは滑稽にこの現代中国と溥儀をデフォルメしている。溥儀を審問する共産党の男の顔がいかにもポスターのイラストの様なドギツいメイクでまるで京劇みたいなキャラを強調、対する溥儀はいかにもリアリズムの老けかたでジョン・ローンの内面を描こうと魅せる。
対して甘粕と言えば、どこか退廃の香りを漂わせる、そんな雰囲気で演出。もちろん大御所のピーター・オトゥールの演技も、圧巻される紫禁城に異質な西洋文化の輝きとして暗い雰囲気の衣装とは対照的な形で魅せる。
さすがにオスカーを総なめにした堂々たる出来映え。

さて、溥儀はやがて釈放され市井の人となった。平穏な庶民の生活は皇帝だった籠の中の生活とは違う安らぎに満ちていた。だが、映画はさらにもう一つ中国の歴史を見せる。いわゆる文化大革命、というタブーを。
その裁かれる人々の中に、獄中で溥儀に人生を与えた刑務所長の姿が。何故、彼が裁かれる?抗議する溥儀を無視して、新しい思想に洗脳された若者が老体に反省しろと迫る。歴史的にはこの文化大革命で1000万人近い人間が殺されたという。だがこの歴史を中国が語ることはない。天安門事件と同じくまさに黒歴史だから。

そして溥儀は歴史、という「籠の中」を知る。
人間は皆、その籠の中で生きているのだ、と。

実は物語のキーとなるのが、その籠の中で飼われるコオロギの存在。今、違う意味でコオロギが話題になっている中で、映画でそれが出てきた事に時代がシンクロしたのか、と思わず笑ってしまったのだが、このコオロギがラスト、今は博物館となった紫禁城での年老いた溥儀と少年の会話シーンで再び登場する。
「昔、ここに住んでいたんだよ」
と、少年にその虫籠を渡すと、溥儀は消える。
その老人は幻か?少年が不思議がって籠を開くと中からコオロギが出てくる。

果たしてコオロギは歴史から解放された溥儀の自由の魂の隠喩なのか?
そこに坂本龍一の、あの切ない曲が流れる。
もう感動的だ。

なぜ坂本龍一が世界から愛されたのか?
戦メリも本作も、その音楽が人間の根元の何かと共鳴したから、だと私は思う。
それは歴史であり、営みであり、喜びであり、悲しみであり、何よりも人間への愛しさ、なのだと。

晩年の坂本龍一の姿が、何故かこの映画の溥儀とダブる。穏やかな人生、そしてそれはささやかな歴史への抵抗。原発運動や森を守る活動など、若いエネルギーとは違う形での言葉や音楽での発信。それはその背中を見ていた人々にどんな思いを与えたか?

私はこれを書きながら、彼の音楽を聴く。どれもが今や宝、だ。まさかこんなに自分に影響を与えていたかなんて知るよしもなかったのだが、やはり教授、というニックネームは伊達ではなかったな、と。

今回の映画。
「ラストエンペラー」1987年
監督 ベルナルド・ベルトルッチ
出演 ジョン・ローン、ピーター・オトゥール、坂本龍一、ジョアン・チェン

さらば教授、安らかに。

追記
大江健三郎と坂本龍一の死は日本の何かを変える、のかもしれない。市民運動が今、世界を変えているニュースを聞くにつれ、さすがに悲観的な日本の諦めムードに一石を投じるのではないか?










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