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いじめらしきものとあいつの存在

 「いじめ」て何でしょう。靴を隠されたり机に落書きされたり悪口を言われたりすることでしょうか。仲間外れにされたり暴力を振るわれることでしょうか。

 私は中学時代「いじめらしきもの」に遭いました。私が所属していた部活動は、月替わりでいじめのターゲットが変わってはごちゃごちゃと揉めていました。くだらな〜と思いターゲットの子達とも普通に話していたら、まあ当然私もターゲットになりました。
 休憩時間になると誰も話してくれない、話しかけても無視をされる、そのくせ1人でシュート練したり水を飲んだりしているとクスクスと笑われるのです。期間はたったの2週間ほど。絶対に負けたくないと一番乗りで部活に行っていましたが、家では行きたくないと母に相談し泣きました。その「いじめらしきもの」は今でも心にこびりついています。

 なぜこれを「いじめ」ではなく「いじめらしきもの」と呼んでいるかというと、いじめている本人たちの自覚がなかったからです。
 私の場合2週間という比較的短い時間で終わったのは、前のターゲットだった子が「もう辞めたい、今までごめん」と謝りに来てくれたからでした。他の部員はその深刻な顔を見て初めてこれはいじめなんだと気付き、ゾロゾロと謝りに来ました。
 馬鹿だなあ、と思うでしょう。私も思いました。自分を客観視し、周囲の状況を見て判断することができないのだろうと。その場の「面白い」という感情だけである意味素直に動いてしまう「いじめらしきもの」は、自覚があって行われる「いじめ」よりも程度は軽くともタチが悪い気がします。

 世の中には、漫画や映画で描かれているようないじめは減ったように思います。もちろん私たちが気づいていないだけで壮絶ないじめに遭っている人もいるかと思いますので、そういう子たちには救いの手がのべられるべきです。ただ、私のような「いじめらしきもの」に遭ったという人はこの世の中溢れかえっていると思います。いじめられた本人さえ自覚がない場合もあります。

 「いじめ」ととても似た言葉で、「いじり」というのがあります。ここの境界線はかなり難しいように思います。いじりは、いじる側もいじられる側も(あるいは見ているだけの第三者も)面白いと思って初めて成立します。いじられる側が(感情を表に出すかどうかは別として)そのいじりに対して負の感情を抱いた時点でそれは「いじり」ではなく「いじめらしきもの」になります。そして、いじる側がこれはただのいじりではなく明確にいじめだと自覚することで初めて「いじめ」が確立するのです。

 そして私は今、「いじめらしきもの」を乗り越え高校大学と充実した日々を送っています。そこで直面するのがかつていじめてきた人たちに対しての印象です。
 もちろん私の中では「私をいじめた人」から一生変わることはないのです。ただ、私自身色んな経験をして、成功と挫折を繰り返しながらたくさん成長して考え方も変わりました。今まで自覚なしに傷つけてしまった人がいるかもしれない、と怖くなることもありました。彼女たちももしかしたら、変わっているのかもしれません。あの頃の行いを反省し、今は少しでも人々のためにと行動しているのかもしれないのです。既に私へのいじめらしきものに対しての謝罪はもらっているため、私のことは気にせずむしろ前に進み変わっていることを願うばかりです。

 ただ1人、「調子乗ってる」という不明瞭な理由で私のことを無視しようと提案し、最後まで謝らなかったあいつだけは今でもクソ野郎でいてほしいとも思いますが。あいつは高校も同じで、私に謝る機会はいくらでもありました。それがあろうことか、高校でも私に対しいじめらしきもの(あいつはいじりと思っている)を始めました。私は正直学力で圧倒的に勝っていたため、最大限見下し可哀想な子だと思うことでやり過ごしていました。
 結局卒業まで謝られることも反省した態度を見ることもありませんでした。完全に道の異なる大学へ進学したため、もう会うこともないでしょう。

 私はもう相手にしていない、私が勝っていると心に言い聞かせています。ただ、言い聞かせている時点で私の中からあいつは消えていないし、心にひっかかり続けるのだとも自覚しています。だからせめて、私の見えないところで勝手に生きて勝手に死ね、くらいは願ってもいいものでしょうか。

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