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環境ノート グレタ演説と『天気の子』(後編)

せら(塩野谷恭輔)

4.『天気の子』――環境問題への応答作品として【ネタバレあり】


 新海誠の『天気の子』は、環境問題をテーマにした作品である。新海自身もインタビューの中でこれを認めているし、さらに以下に記したように私見では、本作は気候変動問題に対して資本主義体制を擁護する上で教科書的な作品にまで仕上がっている。


 舞台は2021年夏の東京。主人公の森嶋帆高は離島から東京に家出してきた高校一年生だ。劇中の東京は異常気象のため、連日の大雨に見舞われている。行き場のなかった帆高は、東京へのフェリーの船中で出会ったライターの須賀圭介が経営する編集プロダクションに身を寄せることになる。そんな中、帆高は天に祈ることで一時的に晴れ間をつくることができる少女、天野陽菜に出会った。
 小学生の弟、凪との二人暮らしをしていた陽菜は、帆高の手助けもあって、依頼用ウェブサイトをつくり「晴れ女」の仕事を家計の足しにすることに。このサービスは好評を博していたが、神宮花火大会をきっかけに依頼が殺到し、サービスを休業。
 折も折、実家から捜索願が出ていた帆高は歌舞伎町での発砲事件が警察の目にとまり、子どもだけで暮らしていた天野姉弟のもとには児童相談所が介入することになる。ばらばらになることを恐れた3人は逃げる決意をするが、その途上、陽菜は能力の代償として身体を失ってしまう。晴れ女の能力を持つ天の巫女が最後に自分を人柱として捧げることで、異常気象は収束するという伝承の通りだったのだ。東京は数か月ぶりに晴天に恵まれる。
 帆高は警察に保護されるも脱走し、陽菜が能力を得た代々木の廃ビルへと向かう。廃ビル屋上の神社の鳥居をくぐると、上空の積乱雲に囚われていた陽菜の身体を救い出すことに成功した。しかし、そのために東京は再び豪雨にさらされることとなる。
 それから2年半後。東京は相変わらず豪雨が降り続いていたが、離島の高校を卒業し保護観察期間を終えた帆高は、東京へ戻ってきて陽菜と3年ぶりの再会を果たす。


 以上がおおまかなあらすじだが、大幅に端折った箇所もあるので、未見の人はぜひ観に行ってほしい。(※遅筆のせいで、このnoteを公開する前に、上映終了してしまったようですね。DVD/Blu-rayでみてください。)


 さて、本作のキーコンセプトの一つをなしているのは、タイトルそのもの、つまり「天気の子」(象徴)である。これは登場人物としては、ヒロインの天野陽菜のことだ。彼女はネットで受注した「晴れ女の仕事をこなす少女」(現実)だが、同時に伝承の「神話における天の巫女」(想像)としても位置づけられ、描かれている。つまり「天気の子」という象徴秩序の導入によって、主人公の現実と伝承とが結びつけられているのだ。
 だが、少し考えればわかるように、①「好きなことで生きていく晴れ女の仕事」と②「神話における天の巫女」とは類比的であるとはいえ、厳密には同じではない。そもそも「晴れ女」とは、未成年の陽菜が小学生の凪との二人暮らしで経済的に困窮するなか、せめて家計の一助になるように、と始めた仕事だった。①と②が「天気の子」として結びつけられるとき、前者は資本主義システムに組み込まれているという重要な差異は無視されてしまう。そして映画の後半で明かされることになるが、陽菜の天気を変える能力は決して彼女の制御下にあるものではなかった。陽菜は能力を使うたびにその代償として身体をすり減らしていくのだ。この意味で、陽菜は自分の労働力以外に売る物を持たないプロレタリアートである。ちなみに、劇中には新自由主義的な労働をこなす陽菜と、就活に苦しむ夏美との対比も描かれていたりする。


 映画前半の描写では、このように現実/想像の対立軸が形成されるが、映画の後半は、もっぱら後者すなわち想像的な物語の記述に費やされることになる。それにしたがって、ストーリーの軸も「少年の論理/大人の論理」という対立に移行している。「天の巫女」である陽菜が、異常気象をおさめるために人柱として犠牲になるという運命をめぐる物語だ。陽菜が連れていかれそうになっている天上世界が彼岸を意味していることは、作中で何度も示唆されている。そして登場する大人のほとんどが「たったひとりの犠牲で異常気象が収まるなら…」という論理につく一方で、帆高はそんなことはあってはならないと抵抗するのだ。物語冒頭から、帆高はしばしば「少年」という二人称で呼ばれている。
 かつて小谷野敦氏が「いじめの温床」として批判した(註7)ような「おとな/子ども」の対立描写は、帆高と天野姉弟の逃避行から、終盤の廃ビルでのクライマックスまで一貫しているが、これは最終的には「子ども」の勝利に終わることになる。「秩序のために誰かが犠牲になるという大人の論理」は転倒させられるのである。


 だが、帆高が積乱雲のなかから首尾よく陽菜を救出してしまったために、異常気象という問題自体が解決されることはない。ここにきて「所詮、人間は自然に対して無力だ」という神話的認識が再導入される。これは立花富美をはじめとする登場人物のセリフとして、繰り返し語られ強調されるが、それによって「秩序のために誰かが犠牲になるなんてことはあってはならない」という「少年の論理」が正当化されていくのである。
 劇中最終盤で須賀圭介は帆高に向かってこう語る。「世界は最初から狂ってる。誰のせいでもない。」だが、帆高は圭介の見解に抗い、自分たちは世界のしくみを変えてしまったという確信に至り、陽菜と再会して終幕する。しかし、異常気象もとい環境問題が、これまでの人類の資本主義的生産諸活動によるものであることは明らかだ。「誰のせいでもない」わけではない。この点で圭介はまちがっている。だが帆高が思っているように、現実の環境問題は帆高や陽菜の個人の行動で左右されるものでもない。それは文字通り「二人だけが知っている物語」にすぎず、圭介と帆高の見解の相違とは、あくまで想像的二択でしかない。


 このようにして、物語世界の(そして私たちの世界の)現実である環境問題は、一貫して想像的な問題として処理され、その原因である資本主義について問うことは忘れ去られてしまう(あるいは禁じられる!?)のである。
 そして新海誠は、以上の操作をかなり意識的にやっているのではないか。帆高と夏美が働いている須賀圭介の会社、K&Aプランニングが月刊『ムー』を取り扱っているのは示唆的である。新海は圭介の口を借りてこう言うのだ。「そんなことは全部わかってて、こっちはエンタメを提供してるんだよ。」「ガキはそういうの好きだろ。」
 もちろん、新海はこのように明示的に、私たち観客を突き放すような真似はしない。一時は帆高に「大人の論理」を説得しようとした圭介も、最後には帆高の側につく。陽菜を助けようと追いかける帆高の姿に、亡き妻を想い続ける自分の姿を重ねたのである。愛する者のために向こう見ずの行動に出るというのは、もちろん「少年の論理」だ。圭介も言っていたように「大人になると大切なものの順番を入れ替えられなくなる」のだから。

 だが、これもやはりオモテの物語なのだ。ではウラの物語とは何か?帆高があそこまで陽菜を助けようと奔走したのは、単に彼女に惚れていたからだけではない。陽菜が消える原因になった「晴れ女の仕事」に彼女を巻き込んだのは帆高であり、彼は責任を感じるべき立場にあった。圭介についても同じである。帆高が未成年の家出少年であることを知っていながら、会社で雇ったのであり、彼に対して社会的責任の生じる立場にあった。事実、圭介は警察から誘拐の嫌疑をかけられてもいる。
 このように見てみれば、終盤の帆高と圭介の行動はいずれも、社会的責任に突き動かされた物語であると理解することもできる。(もっとも、最後には圭介はこの社会的責任を投げ捨てて帆高を助力してしまうのだが、これは前述の「子どもの勝利」が大人である圭介の裏切りがあってこそ、成しえたものであるということも意味している。)
 このようにオモテの物語の背後に、ほつれなくウラの物語を縫いつけることができる、この技量こそが新海誠という監督の本領なのではないかと、わたしは思う。

5.気候変動阻止運動と階級意識


 ここまで随分と断片的な文章になってしまったし、ひょっとするとこうした見解を述べること自体も傲慢であると非難されるかもしれないけれど、本稿の最後にグレタ氏の主張に対して私見を記しておきたいと思う。〈前編〉冒頭で、グレタ氏の主張を各々がより正確に判断すべきだ、などと述べてしまったのだし。

 さて、グレタ氏はしばしば、肉食や飛行機の搭乗を控えるように一般の人々に向かって促している。だがこれは、気候変動阻止運動としては過渡的な意味こそあれ、本質とはほとんど関係がない。気候変動を引き起こしつつある責任は大資本にあるのであって、西欧をはじめとする先進諸国の一般市民にあるわけではない(註8)。――もちろん恩恵を享受しているという意味での原罪的責任ならあるが――。問題を曖昧にするべきではなくて、責任の所在を広く一般市民にではなく、狭く大資本に絞るべきだ――もちろんこれも、今まで行動を起こさなかったという意味で市民にも責任があると言えるが――。
 おそらくはこのあたりに、気候変動阻止運動が資本主義批判を積極的に含みこまなければならない理由の一端があるはずだ。グレタ氏に対しても先進国で恩恵を受けている身でありながら…という批判もある。だが、恩恵を受けているから批判をしてはならないという論理が通るならば、年金を受け取っている人は政府批判もできないし、労働者は賃上げ運動もできないことになってしまうだろう。
 吉本隆明なら「倫理的に潔癖な思想」と呼んだかもしれないグレタ氏の先ほどのような発想は、もしかしたら気候変動阻止運動において左派とリベラル派とを連帯させるための「戦略的二枚舌」としてなされているのかもしれない。自国内の階級対立を保留にして、世界的な南北格差としてのみ処理してしまえば、資本主義の根底的な問題を問うことなく、リベラル派やあるいはノンポリ層を環境保護運動の戦線に引き込むこともできるかもしれないからだ。

 しかし、保守派がしばしば誤解しているように、ことに環境問題においては左派とリベラル派の共闘はそれほどうまくいっていない。それどころか、その対立が最も先鋭化しうる領域の一つなのではないかとさえ思う。〈前編〉でも触れたが、気候変動阻止運動に取り組んでいる左派の多くは、リベラル派のように穏健で漸進的なアプローチによってこの問題を乗り切れるとは思っておらず、むしろ状況を悪化させると考えている。グレタ氏の主張を鑑みればわかるが、リベラル派がグレタ氏を擁護しているのは、その多くが彼女に向けられたミソジニー的視線に対する抗議であって(もちろん必要なことだ!)、彼女の提唱するラディカルな気候変動対策に賛成しているようではなさそうである。それどころかリベラル派の身振りは、グレタ氏のその“大袈裟な主張”を“パフォーマンス”という自分たちにも共感可能なものに貶めることによってイデオロギー的に屈折させ、気候変動阻止運動を穏健なアプローチに回収してしまおうとしているようにさえみえる。
 さて、以上見てきたように、グレタ氏の主張がしばしば全体主義的なきらいさえみせるのは、それが責任の所在を水で薄めた「本質的な資本主義批判抜きの気候変動阻止運動」になってしまっているときがあるからである。奇妙なことに、同じように責任の所在を曖昧化している例として、「人口抑制が有効な温暖化対策の一つだ」とシニカルに嘯いてみる人たちを挙げることができる。だがナオミ・クラインが正しく指摘しているように、温室効果ガスの排出量増加の主な原因は、富裕層の消費行動であって貧困層の生殖行動ではない(註9)。そしてこのような人々の破滅的な主張は、『天気の子』が立っているイデオロギー的立場とそれほど変わりない。

 彼女の登場を起爆剤として大きな盛り上がりを与えられたこの運動を、さらにバランスのとれたものとするためには何が加えられるべきだろうか。その処方箋は階級意識――それがかつてのようなものでは、もはやありえないとしても――である。左派がこれまで伝統的に培ってきた資本主義批判を、積極的に導入することである。気候変動問題の責任は、それを引き起こした多国籍企業やグローバル資本主義のシステムそのものに帰さなくてはならない。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:21)


〈追記〉

 グレタ氏自身は、気候変動の責任が大資本にあるということをはっきりと認識しているようである。それは世界各地で行われている彼女のスピーチからも見てとることができる。ではなぜ、グレタ氏は一般市民(新自由主義諸国に“市民”が存在するのかどうかは措くとして)にまで、温室効果ガス削減の努力を求めるのだろうか。これまで気候変動阻止に向けて有効な対策をとってこなかった大資本に期待して、これ以上ただ手をこまねいて過ごす時間は残されていないということなのかもしれない。だから、本稿末部で記したグレタ氏に対する違和感は公平さを欠くものであるかもしれない。

だが一方で、彼女自身もはっきりと理解しているように、現在の資本主義システムそれ自体を根底から問いなおさない限りにおいて、気候変動問題の最終解決はありえない。このアポリアを抜け出す術はあるのだろうか?そして運動における妥協とははたして、迫り来る気候変動のカタストロフィとラディカルな反資本主義運動とのあいだで図られるべきものなのだろうか?


[註]

7)  小谷野敦(2003)「文学者の〈いじめ〉責任」,『反=文藝評論 文壇を遠く離れて』, 新曜社.

8) 〈前編〉で触れたように、筆者も生活態度を変える必要がまったくないとは思っていない。もちろん必要以上に大量に肉を食べるとか、急用でもないのに飛行機で移動するというようなことは、環境のことを考えたなら控えたほうがいいに決まっている。それに、足元のライフ・スタイルを少しずつ変えていくことは、いずれ大きなシステムの変革の一助となるかもしれない……。だがそのような経済的余裕のある人々が、先進国内部でもどれくらいいるだろうか。新自由主義の亢進する現在、先進資本主義諸国内部における格差も拡大の極に至っている。(そしてそのような余裕のある人々というのは、概して富裕層なのである。)

 中流以下の人々の生活を制限するより前に、気候変動阻止運動が達成しなければならない政治的目標はいくつかあるはずである。反自由貿易、エネルギーシフト、インフラの反民営化/再公営化……。

 また本邦において反肉食を掲げることが、歴史的にさらなる問題をはらむ可能性があることは、もはや敢えて指摘するまでもないだろう。

9) ナオミ・クライン(2017)『これがすべてを変える――資本主義VS.気候変動 (上)』幾島幸子ほか訳, 岩波書店, p155.


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せら(塩野谷恭輔)
宗教学や文学を勉強しています。「幻想の向こう側 ——近代天皇制と戦後民主主義ユートピア」(『情況』2019春号)、「共和制の門」(『情況』2020春号)など。https://researchmap.jp/KyosukeShionoya noteでは、日々の雑感を書いています。