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COVID-19と、世界認識の一断面

 COVID-19をめぐってはネット上で確認できるだけでも、巷間すでにかなりの数の論攷が世に出ているので、あえて私が新しく付け加えるべきことなどあまりなさそうに思う。だけれども、あくまで自分の思考の整理のために、noteを書いておくことにする。
 私は医学の専門家ではないし、これから論じる内容はなんらかの提言を目指したものでは全くない。とはいえ(当然だが)医学的見解を無視して論じるつもりもないので、その点において何か誤りがあればぜひ指摘してもらいたいと思う。
 さて、本題に入る前に指針を一つ立てておきたい。それはそもそもこの件について書いておこうと思ったきっかけの一つでもあるし、また以下の記述において参照先とすることになろう論者の幾人かにも、すでに共有されている見解である。
 それはCOVID-19の世界的流行と感染の拡大という現実を前にして、われわれは防疫上の問題として医学的にどのような対応が正しいのかということと、そこで行われた措置が政治的にどのような効果をもたらすかということは、分けて考えられなくてはならない(=つまり両方考える必要がある)ということだ。
 これは、哲学者のスラヴォイ・ジジェクが早くも2月3日に発表したCOVID-19論(註1)における、次の問題提起に端的に示されている。「事実はどこで終わり、イデオロギーはどこで始まるのか?」。さしあたって、このジジェクの提起をわれわれの議論の出発点とすることにしよう。


 今から一ヶ月ほど前、3月上旬時点の英語圏における言説では、COVID-19を季節性のインフルエンザと変わらないとみなすような、トランプ政権の現実逃避的な振る舞いについて批判する論調が目についた。ジョン・ホーガンは、現実に向かって「Fake News !」と宣告するトランプの態度を、右派ポストモダニズムの政治戦略的な行使であるとさえ言っていた(註2)し、あるいはそこから感染の収束のためには現実を見据えた国際的な連帯が必要なのだという議論も出てくる。ユヴァル・ノア・ハラリが述べている(註3)ように、感染症の流行は人類史においても常に国境を越えるものであったのだし、「真の安全確保は、信頼のおける科学的情報の共有とグローバルな団結によって達成される」からである。
 だが、ハラリのこの見方はそれだけではいささか楽観的に過ぎるようにも思われる。ウイルスは確かに人種差別はしない。誰もが感染する可能性がある。この点でハラリは正しい。しかし、いわゆる先進国においてさえ、市場論理に則った切り詰め政策はこの数十年にわたって公共の医療サービスを破壊してきた。そのような状況では、適切な医療を受診できない人々が一定数生じることになる。

 マイク・デイヴィスが論じている(註4)ように、アウトブレイクはヘルスケアの面では、純然たる階級ごとの配分を暴露してきたのである。富裕国やブルジョワ階級は、自分たちだけを救うために国際連帯をおこなうだろうというデイヴィスの予言は、残念ながら既に現実のものになりつつある。

 その意味で現在の情勢は、階級闘争の一側面を持ちうるのであり、その一点においてグローバルな啓蒙の理念を擁護しつつも階級分断には反対するマルクス・ガブリエルの議論(註5)も片手落ちと言わざるを得ない。ましてハラリは、アメリカがグローバルなリーダーの座を退いてしまったことを慨嘆さえしてみせるのである。
 さて、ほとんどの人々はこの危機が短期間で過ぎ去るなどとは考えていないはずだ。ここでいう危機とはもちろん、現象としてのパンデミックのみならず、それによって引き起こされることになる(orなった)政治的・経済的危機まで含んでいる。率直に言って多くの左派がCOVID-19をめぐる問題にこだわっているのも、ここに理由がある。危機はわれわれのこれまでの世界認識に回復不能な亀裂を入れたのだ。非常事態に取られた政治的な措置は、パンデミックが去ったあとでも撤回されることなく、不可逆であり続けるのではないか?・・・etc.
 こうした予感はイデオロギーのレンズを通して見るまでもなく、すでに確認したように妥当な事実認識である。西側諸国における過去30~40年にわたる新自由主義の統治は、人々の基本的な生活基盤を荒廃させた。その結果、ヨーロッパやアメリカ(そしてそこまで至っていないとはいえ日本も)において、ことごとく封じ込めに失敗し大勢の死者を出すことになった。つまり、われわれがこの危機を生き延びられたとしても、これまでの統治のやり方ではグローバル資本主義を維持することなどできないということが、誰の目にも明らかになったのである。その意味で、現行の社会体制ーー「社会はあった」(ボリス・ジョンソン)としてーーにとっての危機は永続的なものだと言える。
だが、現在がわれわれの世界にとっての転換点であるという認識で合意していても、それが左派にとって希望を抱きうるものであるかどうかについては議論が分かれている。
 楽観的な左派は、グローバル資本主義の不可逆的な崩壊をここに見出す。たとえばアル・ビンズはこの危機を革命的飛躍への契機だと考え、今こそ惨事便乗型社会主義ーーナオミ・クラインの「惨事便乗型資本主義」のパロディーーへと一歩を踏み出すべきだとする(註6)。またフランコ・ベラルディ(以下、ビフォ)は言う。パンデミックは惑星そのものの人類への叛逆であり、ポストCOVID-19において歴史的過程の動力としての主体性は終焉する。さらに貨幣が無力となっている今、使用価値こそが回帰してくるのだ、と(註7)。

一方では悲観的な左派もいて、アラン・バディウはその例である(註8)。彼はそもそもCOVID-19パンデミックを特別な事態とさえ考えていない。バディウは、いくつかの超国家的な組織当局(たとえばWHOなど)が存在するにもかかわらず、感染拡大防止の第一線に立っているのはつねにブルジョワ国家であることに注目している。これが意味しているのはもちろん、経済はグローバル経済の支配下に置かれているにもかかわらず、政治権力はつねに国家レベルに存在しているという、いつも通りの話だ。世界大戦やパンデミックが政治的には中立だと考えているバディウは、それらの出来事が過去に中国とロシアでは革命を引き起こしたという事実は認めるものの、フランスのような国ではなんの価値ある政治的帰結ももたらさないだろうと書く。
 マット・コフーンはかなり教訓的なことを言っている(註9)。「資本主義リアリズム(マーク・フィッシャー)が終わった」と宣言することは、それ自体新たな資本主義リアリズムになるだけだ、と。歴史を振り返れば、資本主義は危機に直面するたびに自らをダイナミックに変革することで、極めて柔軟に危機を乗り越えながら生き延びてきたのである。

とはいえ、この一見相反する二種類の見解は、さほど隔たってはない。危機に将来の光明を見出す左派も、そのほとんどは単に浮き足立っているわけではない。ビフォは、暴力を手段とした資本制経済の再起動システム=技術全体主義への移行を危惧しているし(彼は、それは現に中国で起きていると述べる)、経済成長の自由か救済かの二択を提示するフラヴィア・バルダリ(註10)にしても、むしろ現在が選択の局面であることを強調するきらいがある。
 悲観的に見えるバディウも、この局面においてブルジョワ国家がその関心を階級横断的なものに拡大しなければならないことは明記しているし、コルクホーンは資本主義というゾンビの脳髄をはっきり狙うことを考えろと啖呵を切るのである。
 こうした一連の言説が共有している特徴の一つは、資本主義が再審を迫られるのは今回が初めてではないということだ。リーマン・ショックに端を発する2008年の世界金融危機、2011年福島第一原発事故、そして2017年のトランプ米国大統領の誕生とマーク・フィッシャーの自殺……などなど。

 ここでわれわれが直面することになるのは、現行の資本主義体制のあとに何を準備するのかという繰り返されてきた問いと、この資本主義が作りだしたパンデミックという危機(註11)をいかに乗り越えるのかという問いである。
 バディウが確認していたように、政治的権力は現在もなお依然として国民国家が有している。そのため、疫病対策もまた国家が責任を持って対処すべきだという常識も一応参照しておかなくてはいけない。医学史研究者の鈴木晃仁は、現時点でCOVID-19の流行から脱しつつある地域として中国と韓国を挙げているが、鈴木によれば両国の対応は対照的だという(註12)。曰く、中国の場合は初動で遅れをとったものの、その後は強権的ともいえる徹底した封じ込め政策をとり、一方で韓国の場合は個々人の自発性に任せた検診体制を採用したり、陽性患者に対しても隔離方法について民主的なやり方で決定している。

 事態を単純化してしまえば、中韓両国の対応の違いは、人命を優先するか人権を優先するか、という選択になる。原理主義的なことを言えば「人命か人権か」という二択なら、迷わず人権を選ぶべきである。それが事後的なフィクションであったとしても、この基本的な認識がなければフランス革命さえ成し得なかったろう。かかる観点からすれば、統治層に補償を約束させるまで死ぬ気殺す気で街に繰り出せ、と言う革命家外山恒一の一連のツイートと、彼の“不要不急の外出”闘争とはともに一定の正しさを含んでいる。首都圏に緊急事態宣言が下される以前の当時において、徒に自粛に協力することは、クラスター感染を避けるという防疫上の判断としては正しかった(そしてそれは今なお正しい)が、それが政治的にもたらす効果は既存の国家共同体秩序の再強化でしかないからだ。「不要不急は控える=切り捨てる」という金科玉条自体そもそも、現在欧米で起きている医療崩壊の元凶:ネオリベの標語ではなかったか。

 だが真の問題は、「人命か人権か」という二者択一を立ててしまうことそれ自体なのではないのか。ここでの「人命か人権か」という二択は、その延長線上にある外山の“不要不急の外出”闘争も無論のこと、国家権力の是認を前提としている。忘れてはならない認識とは、ブルジョワ国民国家権力は“われわれの”権力ではないという認識である。クリスティン・ベリーが警告している(註13)ように、国家に規制を任せる立場は、個々人の行動を制限する動きをも推し進めるのである。それに何れにしても、本邦においても新自由主義から抜けられない国家がもはや頼りにならないとすれば、自分たちの命は自分たちで守るしかなくなるだろう。
 さて、左派は国民国家とは異なる共同体をいずれ打ち立てなくてはならないし、またすでに提言されているように「根本的な問題は、わたしたちが中央集権モデルを前提としない医療の語り方を欠いている点にある(註14)」。

 「効果的な封じ込め」と「国家権力の忌避」という二律背反。この二つを同時に実現しようとするのは現時点ではユートピア的だ。だがせっかくなので、ここでそんなユートピア的な夢想をひとつだけ記しておく。冒頭に述べたように、その意味でこれは提言などではない。
 近年、アメリカの左派思想家フレドリック・ジェイムソンは国家権力を占有・変容させる戦略として二重権力としての国民皆兵制を提案した(註15)。日本におけるかかる戦略の難しさについては、すでに別のところで扱ったので本稿では触れない(註16)。ちなみに国民国家を乗り越えるプロジェクトとしての、二重権力それ自体への着目はジェイムソンの独創ではない。そのような観点は周知の通り、ランシエールや柄谷、バディウらにも共有されているものではある(註17)。

われわれが作り出さなくてはならないのは、国民国家に代わって、医療-福祉-雇用保障(-…etc.)を支え続けることが可能なだけの脱中心的な共同体である。昨今、アナキズムの立場から類似した(しかし似て非なる!)提案はすでに出されている(註18)。私の言っている共同体はいずれ国民国家からその権能の一部(あるいは全部?)を奪取しなくてはならないものなので、既出のアナキスト的提案とは区別しておきたい。しかし、目下の感染拡大阻止という点においては小さな点に分かれるという彼らの提案の方に分があると思うし、また明日から実践できる内容でもあることは確かだ。



 ここまで纏まりのない話を書いてきたが、そろそろこの文章も終わりにしたい。未来に希望を抱けるかどうかという話も書いたが、私自身としてはあまり「将来には希望がある!」なんてことを言うのは好きじゃない。これはおそらく私の性格的なもので、COVID-19に関係なくそうである。
 「コロナ禍のあとの希望」など、あまりに幻想じみてはいないか。ダンテの『神曲』に描かれる地獄の門のあの有名な銘文ーー汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよーーはフロイト的な意味での去勢として解釈されるべきなのではないか。それにもっと現実的な話をすれば、コロナ禍の波を受けて、この原稿を書いている時点で私の月収は0になっているのだし、将来よりもまず今を生き延びる必要がある。
 そもそもCOVID-19という事件を受けて、将来の社会が現在とまったく異なる形態を取ることになるならば、「希望」が何を意味するのかさえ明らかではないのだ。だがそれは、将来に希望がないという話ではない。本稿はジジェクの提起から出発したが、筆を置くにあたって、いま一度彼のところへ戻ってこよう。ラカン派精神分析家としての顔を持つジジェクによれば、一度も所有したことのない対象を所有する唯一の方法とは、今なお所有している対象をあたかもそれが失われてしまったかのように扱うことであり、それこそがメランコリーの策略なのである(註19)。


[註]

1) Zizek, Slavoj“Clear racist element to hysteria over new coronavirus – Slavoj Zizek” 2020/2/3

2) Horgan, John.“The Coronavirus and Right-Wing Postmodernism ーーDoes right-wing skepticism toward the coronavirus have anything to do with the postmodern philosophy of Thomas Kuhn?” 2020/3/9

3)ハラリ, ユヴァル・ノア. 「人類はコロナウイルスといかに闘うべきか ーー今こそグローバルな信頼と団結を」柴田裕之訳, 2020年3月15日『Time』誌記事.

4) Davis, Mike “Mike Davis on COVID-19: The monster is finally at the door” 2020/3/19

5) ガブリエル, マルクス「コロナ危機 精神の毒にワクチンを」齋藤幸平訳, 2020年3月21日『General-Anzeiger』誌記事.

6) Binns, Al “Slavoj Žižek’s “End of Capitalism” and the Coronavirus” 2020/3/23

7) ベラルディ, フランコ「破綻を超えて:その後の可能性について、3つの沈思黙考」櫻田和也訳, 2020年4月1日

8) Badiou, Alain “On the Epidemic Situation” translated by Alberto Toscano 2020/3/23

9) Colquhoun, Matt “THE CAPITALIST REALISM OF “CAPITALIST REALISM IS ENDING”” 2020/4/7

10) Flavia, Baldari「Covid-19緊急事態に関する4人のイタリアの哲学者のコメント」2020年3月17日

11) 現在の感染症の世界的流行やそれがもたらす被害について、その責任の多くが資本主義にあるという事実については、ナオミ・クラインの一連の著書を参照のこと。また進化生物学者のロブ・ウォレスは、以下のインタビューにて、COVID-19という事件は食糧生産や多国籍企業の利益と密接に繋がっていると論じている。
新型コロナウイルス感染症(covid-19)に関するインタビュー」脇浜義明訳, 『Marx21』2020年3月21日

12) 鈴木晃仁「コロナウィルスはこうして「凶悪化」してきた…感染症社会の21世紀 爆発的流行は今後も起き続ける」2020年4月9日

13) Berry, Christine “The COVID-19 pandemic will change everything - for better or worse” 2020/3/24

14) CrimethInc 「ウイルスと、国家の日和見主義に抗して」影丸7号訳 2020年3月12日

15) ジェイムソン,フレドリック「アメリカのユートピア」, ジジェク, スラヴォイ編『アメリカのユートピア』(2018)田尻芳樹・小澤央訳, 書肆心水.

16) 塩野谷恭輔「共和制の門ーー日本人における宗教と共同体の崩壊にさいして」(『情況』2020年春号)情況出版, 2020年4月15日刊行予定。

17) ハムザ, アゴン「他のシーンから他の国家へ ジェイムソンの二重権力の弁証法」, 『アメリカのユートピア』所収, p178参照。

18) CrimethInk「ウイルス禍を生き延びるアナキスト・ガイド:危機の資本主義と台頭する全体主義――抵抗の戦略」名波ナミ訳, 2020年4月9日.

19) ジジェク, スラヴォイ『事件! 哲学とは何か』(2015)鈴木晶訳, p34.


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