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表現と創作に付きまとう評価と否定の話

皆さんどうも。
案外この間の手帳の話がいろんな人に見てもらったみたいでうれしい限りです。
今回は雑記として書き出したいことがあるのでやっていこうと思います。
ですべての雑記に共通することなんですが、あくまで個人の主観と考えを書いてるだけなんでこういう考えもあるんだなぁふんふん程度で流してみてもらえばいいなと思います。
それじゃあまあ時間があるときに読んでみてください。

とある人と話ていた話

友人間で話していた話なんですけど、まあとある日です。
私の仕事の一環で絵を描くことがあるんですが、その作業をしながら友人と話していたんですけども、その時に言われた一言があります

「絵がかけるってすごいな」

私にとって絵をかくことがそこまで特別じゃないことだったのでどうしてか聞いたんですね。

「私は昔絵を描くことを否定されたから絵をかくのが嫌い、だからそうやってきれいに描けるのがすごい」

って言われたんですね。
私はそれを聞いてとてもとても悲しくなりました。
そんな話を起点にちょっと思ったことを書いていこうと思います。

そもそもの話ですけど、「絵」って自由なものじゃないでしょうか?
皆さん一度は学校の授業で絵具を使って絵を描いた経験があると思うんですけど、その時お題はあれどある程度自由に描きませんでした?
それにもっと小さい頃をたどればわりと何にも考えずに楽に描いていた人って沢山いると思うんですよ。
そもそもそうだと思うから否定されるっていうのが私には理解ができなかったんですね。
だって「絵」って「言葉」と何も変わらないから。
喋れない人は絵にして気持ちを伝えたりとかもしますよね?
今現代に残されている過去の美術作品の中にも何かを伝えるために作られたものがあるわけですよね?
つまりですよ。ただの表現方法の一種でしかないんですよ。
それを奪ってしまう、つまり言葉を奪うのであれば世の中ロボットだけの世界で回るんですよ。
近年創作物のAI化が進んでいますけれども、もうそれでいいじゃんって話になってくるわけなんですよね。
でなんでこうなっているかってちょっと自分なりに考えてみたので一緒に考えてもらえないでしょうか?

そもそも表現に評価はいらない

そもそもの話なんですけど、表現することに評価は必要ないと考えています。
ただこの評価の意味を正しく使っていないことは否定しないです。
なのでちょっと深く書いてみようと思います。

まず、評価という言葉には大きく3つの使い方をされることが多いです。

1、物に対する価値・価格を決めること。
2、事物や人物の善悪・美醜などの価値を判断して決めること
3、事物や人物について、意義・価値を決めること

これだけ聞いてもあんまりよくわからないと思われると思うので私の一意見としてお話しますが。
表現において評価されるべきは2と3の意味だけであって1の意味は必要ないんですね。
表現されたことに対して、受け手が善悪であったり、意義であったりを評価するのは必要なことです。すべてを全うに受けてしまっていては自分の意見がなくなってしまうから。

でも1のように価値・価格を決めるのはまた違う話になってくるんです。
それが芸術作品であったり作者及び持ち手側が「物」として扱っているのであれば別です。それに「物」としての価値を持ち手が欲しているなら、それに対しては1の意味で価値・価格を決める必要があります。
でも、そうでなければそれを必要としないんはずなんです。
でも形のある表現をすればそれを人々はまず1の意味で評価しだす。
それが私は必要ないと考えるんですね。

例えばですが、漫画作品系においてファンアートというものが存在しますよね?それに関しては1の意味で評価しますか?
多分恐らく多くの方がしないと答えると思います。
むしろその作品に対する思いの方を評価する場合が多いので2や3の意味で評価するのではないでしょうか?
そういうことなんです。
そもそも一種の表現方法に過ぎない。
なのにそれが「オリジナル」になるだけですべてが「物」として見られてしまうのが本当に悲しい話だと私は思います。


芸術作品においての評価の話

今現在、絵というものは芸術作品に部類されることが多いと思います。
そして先ほど私は芸術作品は「物」として価値がつくものだとも書きました。
でも果たしてそれだけなんでしょうか?
っていうのをすこし聞いてほしいなって思います。

芸術作品はその当時の時代の現れであったり、文化が表れていたりといろんなことをくみ取ることができます。そして、芸術作品は芸術にまつわる方(学芸員さんとか)がいろんなその時代の歴史、文化、場所、状況等をいろんな研究をして現代においての考察・評価をしているわけですよね。
そしてそれをみた鑑賞者もその専門家の解説や考察をもとにその作品に対して想いを巡らせるものだと私は考えています。

この流れから察しがいい人はわかると思うんですけど、
そもそもの話、考察・評価をするのはその後の人であって現代の人間ではないということです。
そもそも当時の人の中に初めから「物」として絵を書き出した人はどれだけいるのでしょうか?もちろんのちに「物」を生み出すというので絵を選んだ人はたくさんいるでしょうけどね。
そのものに価値を見出すのはいつだって後に生きる人なんですよね。

じゃあ現代に生きる私たちは同じ時代に作られた作品に評価を付けられないのか、それはまた違うんです。
確かに価値はわからないかもしれない、そもそも同じ時代に作られたもの対して、美醜などを感じない。わからないという感想を抱く人もするなくありません。
でそういったような作品をよく「現代アート」と呼んだりします。
まあ正確には意味は全く違うものだったりするのですが、この場では同じ時代を生きる作品を「現代アート」と仮定することにします。

よく「現代アート」と呼ばれるものは「わからない」を楽しむものだと称されることもあるくらいなんです。
現代アートの生みの親とよばれるマルセル・デュシャンはこうとも言いました。

作品を起点として鑑賞者が思考をめぐらし、そして鑑賞者の中で完成する

この考えを主軸に置くのであれば、数多の鑑賞者の数だけその作品が完成するわけです。これは人間にしかできない人間のもつ感情をいう様々な考えが引き起こす奇跡のようなものだと私は考えています。
そういった2や3の意味で評価することは今の私たちにもできるんです。
そして今の私たちが評価した2や3のことも含めて後世の方が1の意味での評価にするんです。

感情が動くことによってその人の感情の引き出しが一つ増え、その人の感情の幅が増えるきっかけにもなると私は思っているので芸術は人間にとって必要なことだと私は思っているんですよね。
だって視覚からの情報だけでなく聴覚だけの情報だけじゃなく色々な情報を総合して考えをめぐらせるので。
それが人間の感性や感情を形成するきっかけの一つになると思っているから。

肯定と否定は紙一重

評価をするおいて、一番完結で手っ取り早いのは肯定と否定です。
その考えは素晴らしい、その考えこそ心理だ!
その考えはおかしい、その考えはあり得ない。
こういったように肯定と否定は紙一重なんです。
そして悲しいことに否定の方をよく見てしまいます。
なぜならばその分母が少ないから、処理が速いんですよね。
だってご飯だって量が少ない方が早く食べれますよね?そういうことです。

でもこれは悪いことではないんです。決して否定することが悪いんじゃない。それも思考力を付けるには必要なことだし、取捨選択にするにはやっぱりこの考えっていうのは必要になってくるものなんですよね。

この思考は自分に必要なものではないという否定を作るのは人間の感情を制御するためには必要なことだから否定することを否定することはしません。
でも否定の形は変えてもいいんじゃないかと思うことがあります。

まず、肯定・否定するときに何を考えますか?
一度見て生理的又は直感的に肯定・否定しますか?
内容を知ったうえで肯定・否定しますか?

一つ一つ私の考えを書き出しますね。

まず生理的・直感的に肯定・否定する場合。
それは本能とか野生の勘などに近いものなんではないかと私は考えています。だからこの部分で感じるものは正直変えようもないし、たぶん変えたくても変えられない場合が多いと思うんですよね。
だってたぶんそれはもう深く深く根付いたもので雑草が抜いても抜いても出てくるのと同じように、絶えず湧き出てくる感性だと思うから。
だからこの部分に関してはしょうがない部分だと思うし、どうしようもない場合って多いと思うから自分でどうにかしなきゃいけない部分だと思うですよね。
肯定する場合は妄信しすぎない、それだけが世界だと認識しない。
否定する場合は一度ダメだと思ったら自衛する。自らそこに飛び込まない。
これは今ではよく言われるようになりましたね。嫌だと思ったら自衛する。
それと同じことです。

そして内容を知った時の場合。
これに関しましては、そもそもの大前提、聞いたのは自分であるということを理解しなければいけない。
そもそもそこでいったん咀嚼することを選んだのは自分なんです。
肯定するにしてもいい感性が身につけられた、これの感性は取ることにしよう。だってその方が自分の感性が育つような気がするから
否定するにしてもああそんな意見もあるんだな、でも自分にはいらないかもしれないから捨てることにしよう。これで自分を守ることができるだろう。

肯定も否定もするのは自由です。
だけども、理性を放り出してしまってはいけないと私は考えています。
どうしてか?それはこの事柄に関して必ずそれをする際に何か又は誰かが存在するんです。一人で解決する事柄ではなく、それをするに対する相手が存在するのを忘れてはいけないんです。
だから理性を放り出してしまってはそれは衝突・嫌悪・憎悪の始まりになってしまうと私は考えています。

どうか自分で自分の表現方法を消さないで

こうやって大層偉そうなことを書きましたけど、でもこれは万人の考えでないことなんて私だってわかっています。
だから変わるべきは受け手なんです。
相手を変えることなんてそうそうできません。
例えば建っている建造物をそう簡単に移動させられますか?
それと一緒で相手を動かすことなんてまあまず無理だと考えるのが無難だし早いです。
でもそうだからと言って言われたからそうだと受け入れてしまわないでほしい。相手はそういう考えなんだろうけど自分は違うというのをどうかはっきり持ってほしいなと思います。
難しい話だっていうのなんか百も承知の話です。
でもそうやって受け入れてしまうことで自分を削らないで
自分を自分で否定しないで。
一番の自分に対する理解者は自分なんです。その自分を自分で否定しないで。
私はそう思います。

今現在、そうやって何かを否定されて生きている方はたぶん沢山いるでしょう。特にコミュニティーの狭い場所で生活している人は。
でも、どうか自分だけは自分を肯定してほしいです。

今回の絵の話でしますが、例えば
「お前の絵は汚いから書くな」と言われたとしましょう。
そんなもの誰だって書き始めはそうだし、もし書き続けたとしてもうまくならなかったなんて場合もあるでしょう。
でも絵を描くことに対する目的はなんでしたか?
楽しいから描いていたんではないでしょうか?
自己表現力の一種として、相手に届ける思いの手段の一つとして。
初心を忘れるな。よく言われる言葉ですがその通りなんです。
それを始めたきかっけを思い出してください。
たった気軽な気分で始めただけ。
でも自分のために始めたんだと私は思います。
それを他人に権利を譲らないでほしいです。
自分は自分にしかどうにもできない何一つ変わらないものだから。
長々と書きましたけどこれだけはこれだけは伝わってほしいなと思います。




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