香野 葵

香野 葵

最近の記事

どうか

夕方、祖父の家から歩いて丘を登った。 一面茶畑だったこの場所は、まっさらな更地か、お茶の木が伸び放題の荒地になっていた。よくこの場所を走った。茶畑の中にある小さなお稲荷さんは、小さい時、祖父が散歩で連れてきてくれたことがある。奥まで続くトンネルのように思えた鳥居が、こんなに小さかったのか、と思った。 朝起きた時、ああ、祖父はもういないんだった、と思い出す日が続いている。祖父だった骨はここに確かにあるのに、もう何も見ることはできない。 自分の時間の感覚がおかしいように思う。祖

    • 女の体を捨てたかった

      吉本ばななの小説に、こんな一節がある。 母を亡くした女性が主人公の物語だ。 この文章を読んだとき、私は二十歳過ぎだった。救われたような気がした。体を乗り物に例える考え方は、私の心をふっと軽くした。 そっか。私の体は入れ物でしかないんだ。 そう思ったら外見や性別のしがらみから少し自由になれた気がした。 私という機体のてっぺんには母譲りの髪と顔が付いている。機体は全長が他のものより少し長くて、うっすらと女の形をした肉が、骨と臓器を覆っている。 頭部に開いた2つの小さな切れ込

      • 君は信じられないくらい幸せになる

        自分のことをあまり知らない人がくれた言葉が、思わぬところで支えてくれることがある。 私にとってそれは、お守りのようになって時々私に根拠のない自信をくれる。 大学の時に、留学生の友達と文章で話したことがある。「文章で」というのは、私が英語を話せず、その子も日本語が思うように使えなかったから、スマホの翻訳機能を使って書き出した文章を見せ合って話をしていたのだ。私もその子も、お互いのことをあまり知らなかった。「会話」している途中、私にスマホを渡しながらその子は「ハハ、なんか、面白

        • 遠くに行ったひと 映画『アフターサン』

          (映画『アフターサン』の内容を含みます。) 今年の夏は映画館で『アフターサン』を3回観た。この映画が面白かったから、というよりは、もう一度観に行かずにはいられなかったのだ。どちらかといえば、上演中ずっと、観ているのがなんとなく苦しかった。穏やかで、ゆっくりとした時間が流れる夏がそこにあって、しかしもうなにもかもが届かないものとなってしまった、というようなどうしようもない感覚に包まれた。 観たときに何を思ったかの記録として、私の感想をここに残しておきたいと思う。 父が、もの

          人生でいちばん美しいコレクション

          「これ、私の人生で見た中で一番美しいコレクションだよ」と彼女は言った。 彼女はロシアからの留学生で、私が大学時代に過ごした寮のルームメイトだった。本当は英語で言っていたから、「This is the most beautiful collection I’ve ever seen in my life」とかだったと思う。英語を聴き取るのがやっとだった私は、語尾にインマイライフと発したその上品な声とリズムだけをなんとなく覚えている。 彼女が美しいと言ったのは、私が集めた数冊

          人生でいちばん美しいコレクション