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君は信じられないくらい幸せになる

自分のことをあまり知らない人がくれた言葉が、思わぬところで支えてくれることがある。
私にとってそれは、お守りのようになって時々私に根拠のない自信をくれる。

大学の時に、留学生の友達と文章で話したことがある。「文章で」というのは、私が英語を話せず、その子も日本語が思うように使えなかったから、スマホの翻訳機能を使って書き出した文章を見せ合って話をしていたのだ。私もその子も、お互いのことをあまり知らなかった。「会話」している途中、私にスマホを渡しながらその子は「ハハ、なんか、面白いコミュニケーション」と少し笑った。私は「今の時代に生まれてよかった。スマホがなかったら私たちリアルタイムで何も話せないね」と言いながら受け取った。
その子は、子供時代の自分が置かれた環境から逃れてここに来るまでに、親切な人たちにたくさん助けてもらったこと、今やっと息ができるように感じていること、今留学しているこの時間が自分だけのものではないと思っていることを、私に教えてくれた。その子は「あなたは私の拙い日本語を理解しようとして、時間と労力をくれる。あなたはよく、日本に来てくれてありがとうと言ってくれるけど、私はあなたほど親切な人を母国でも知らない。それはあなたが日本人だからなのか、あなた本来の性質なのかわからないんです」と言った。長い長い文章の最後の「君は信じられないくらい幸せになる」という翻訳機の文字列を、字体や文字の大きさまで、今も鮮明に覚えている。あれを元の言語で見ておけばよかった。どんな表現だったのだろう。完全な日本語ではない、翻訳機を通した、相手の未来への力強い断定。日本語のネイティブにとっては、母語だからこそ、なかなか言えない。会話をたくさん重ねてからも、私とその子はお互いのことを結局のところあまり知らないままだったが、その子がその言葉を私にくれたという事実は、今も私を照らしている。

中学生だったとき、家庭科の授業で、当時の私達の祖母くらいの年齢の人たちが、浴衣の着付けの先生として学校に来た。格技場の畳の上で、お婆さん先生の1人が私の着物の裾を合わせながら、「今、13歳?いいですねぇ、若いって。本当にいいわね。これからなぁんにでもなれるからね」と言った。その時、私は「ほんとですか?」と聞いた気がする。その人は「そりゃあもちろん。やろうと思えばどんなこともできるよ」と、私の目を見て言ってくれた。その授業は1時間くらいしかなかったから、もうそのお婆さんの顔も声も名前も忘れてしまったけど、私はその言葉を10年以上経っても覚えていて、時々取り出しては反芻している。
そして元気なら地元で今も暮らしているだろうあの時私に着付けを教えてくれた先生に、心の中で呟く。
 私ね、先生、今でもあの会話、たまに思い出して嬉しくなるんです。きっととっくに忘れていると思うけど、あの時私のことを全然知らないあなたみたいな、先生とか親とか以外の大人が、評価とか全く関係無しにああいう言葉をくれたこと、じんわりとあったかくなります。そうだ、私何にでもなれるんだって、地元を離れた今もあの時交わした会話が、背中を押してくれています。寒くなりましたね。元気でいてください。

私のことをあまり知らない人たちが無根拠にくれた言葉が、時が経ってもずっと私を支えている。

例え好意的な言葉であっても、「私のことを何も知らないあなたに、なんで知ったように言われなきゃいけないの」と感じるものもある。そういう類の言葉とそうじゃないものの違いはなんだろう、と時々思っていた。
最近になって、それは「その人が心からそう言ってくれているように私が感じ取ったかどうか」なのかもしれない、と思う。
下心を感じ取った時点でその言葉は私にとって無意味なものに成り下がるのだと思う。

私がお守りのように大切に持ち続けている言葉をここに書き残そうと思った。口に出して言ってしまうと魔法が解けそうで、今まで誰にも話さなかった。この小さな画面上だとしても、文字として刻んだら逃げてしまわないような気がしている。

根拠のない言葉が与えてくれた自信が、自分の力で得たものではないことはわかっている。これは魔法なのだ。いつかは消えてしまう。でも、だからこそ、自分の力で掴み取るために地面を蹴って歩き出すときの、ほんの小さな力となって私の中にずっとある。幸運にも私はそれを貰う機会を得た。

今日、新しく本を買った。
私は何にでもなれる。私は信じられないくらい幸せになる。

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