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第10話 宗旨人別帳と檀那寺の過去帳は先祖調査に使えるのか

江戸時代には、人別改めという人口調査が行われ、その際、人別帳が作られました。

同時に、禁制のキリシタンや不受不施派(日蓮宗の一派)でないかを調べた宗門改めも行われ、宗門改め帳が作られました。

やがて、両者が一体となり、宗旨人別帳となりました。

この宗旨人別帳には、その村の本百姓の戸主や家族の名前、年齢、宗旨が記されました。当時の戸籍に当たります。

村や町ごとに作られ、村であればその長である名主(庄屋)の家で、町であればその長である町年寄の家で保管しました。これに目を通せば先祖の調査は容易になります。

市町村史の資料編に、その一部が抜粋されて載っている場合があります。これなら、現存しているので、何とかして一次史料に辿り着く可能性もあります。

ですが、日本は天災や火災が多く、また名主の家の没落や転居もあり、残っていないことが多いです。

そもそも、当時も過去の分は不要になるので、紙を襖や屏風の下張りなどに再利用することもあったでしょう。

また、江戸時代は、キリシタンでないことを証明する手段として、寺請制度がとられました。これは、寺院が、その人物について、自らの檀家であると証明する制度です。こうすることで、禁制であるキリシタンや不受不施派ではないことを証明出来ます。

檀那寺に抱えられる檀家は、代々その寺院を檀那寺とするのが一般的で、一代限りではありません。
それなので、檀家ごとに過去帳を作成して管理しています。この過去帳を見れば、その家で亡くなった人物の名前(俗名)や戒名、没年月日が分かります。

筆者は母方の過去帳を見せてもらったことがあります。これには、残念なことに、戒名と没年月日しかありませんでした。

そんな場合でも、墓地に行き、戒名と墓石を照らし合わせ、墓石に俗名が彫られていることもありますので、過去帳も先祖調査の大事な史料の一つになります。

ところが、過去帳は、誰でも気軽に見ることは出来ません。現在もその檀那寺の檀家であり、法事などでお世話になるなど付き合いがあれば可能です。ですが、ずいぶん以前に分家し、檀家である本家とは疎遠な場合には難しいでしょう。

これは個人情報保護のためではありません。以前(昭和40、50年代)に、同和団体による差別戒名糾弾があったためです。

差別戒名とは、被差別民の戒名に差別的な文字(革・穢・卑・賎など)用いたもので、江戸時代に各宗派で行われました。現在でも、同和団体刊行の書籍や雑誌に、「まだあった差別戒名」「差別戒名を発見」などの記事が載ることがあります。

以前読んだ被差別部落の民話にも差別戒名の話が載っていました。現世の差別と貧しさに苦しむ老婆が、来世での救済を願い、功徳を積むためになけなしの米銭を檀那寺へ寄付したにもかかわらず、差別戒名を付けられたという内容でした『部落に伝わる根っ子話(被差別部落の民話集)』(明石書房)。このときは、さすがに宗教の救いとは何なのかと考えさせられました。当時者であれば、怒りはもっともです。

もちろんこれは、江戸時代の僧侶たちの命名で、現在では行われておりません。ところが同和団体は、現代の宗教団体の最高責任者を糾弾会に呼び出して責任を追及しました。

親の罪を子どもに負わせることすらお門違いなのに、何十世代も前のことを責めました。この団体は、過去に暴力事件を起こしていますが、その責めを今の幹部が負うことはないでしょう。時効ですし、そもそも人物が異なるのですから。ですが、人権を盾にすると、こんなお門違いが罷り通りました。

ところで、この団体の糾弾会の様子は異様で、大のおとなの男が泣いて謝罪するほど凄まじいものです。一人の老いた僧侶を、大勢の同和団体員が取り囲み、罵声を浴びせました。筋道を立てて反論しても、彼らは怒鳴り続けると言います。

こうして、各宗派は屈服し、以降は仏教的語彙で飾りながら、同和団体の主張に沿った発言するようになりました。

糾弾されたのは、仏教界だけではありません。教員が多いようですが、大企業やマスメディアもその対象となりました。同和団体に毎年協賛金を払っている企業は、たいてい過去に糾弾されていると言います(示現社の記事)。

ともあれ、こんな過去があったため、過去帳は檀家でない限り気安くは見せてはもらえません。

註釈
同和団体の糾弾会については、高木正幸 『同和問題と同和団体』『新・同和問題と同和団体』、また、示現社ホームページなどに詳しい。

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