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あの前とあの後

こんな言葉をよく聞く様になったのは、2011年3月11日の東日本大震災から2・3年が経ったころからかなと思う。それまでは、きっと第二次大戦が前後軸として使われていて、その位、多くのヒト(僕にとっても)大きな出来事だった。

ちなみに、僕は小学校1年の時に神戸震災の報道を📺画面で見ながら、僕の家は崩れないかなと思いながら見ていた思い出がある。その当時、僕は神奈川県厚木市の団地にいた。(今でも、住む場所は地面の側が良いと思っている。たまに夜景がキレイなホテルに泊まるのは良いけれども、タワマン暮らしはしんどいと思われ)

で、2011年はどういう年かというと、社会人1年目が始まる年で、大学4年だった僕の卒業式は簡略化された(これは僕にとっては良かった)。計画停電なんかもありつつ、テレビからはCMが消え、声高に「絆」や「繋がり」の大切さが語られつつあった。

いや、その大切さ、それは分かるけれどもさ。僕も周りの方に助けられることが多いから、いつも感謝していますよ。それはね。

でも、それを共通認識として共有させてくるような空気感のなんとも言えない気持ち悪さというか、なんというか、皆がみんなそう思っているのが前提という空気感が嫌で。大嫌いだった、小学校の道徳を思い出した(高校の倫理の教科書は愛読書)

今は楽しいことをしちゃいけないムードが漂っていて(居酒屋で飲み会をすることすら自粛しないといけない空気感)、これから、どうなるんだろうかという思いを強くもっていた。

で、冒頭の言葉を聞く様になった震災から2~3年後、僕の周りでは「シェアリングエコノミー」という言葉を聞く機会が増えた様に感じていた。ちょうど、その時期に転職をして、「ゲストハウス(宿泊施設)」業界へと足を踏み入れた。シェアリングエコノミーに関してはまたの機会に。

そして、今回のコロナに関しても、なんとなく、あの時と同じ空気感が漂っているような気がして、目に見えないものへの怖さを感じていることは勿論だし、多くの方が被害にあっていることであるということも、僕としては認識しているつもりではある。

だけれども、僕らは、おぎゃあと生まれてから死へと向かっている。それなのであれば、その限られた時間を有効に使ってこそなのではないかなと、あの時から、強く感じている。

被害にあわれた方への冥福を祈り、今年も東北へ遊びに行きたいと思っている。だって、それが僕が思う貢献だから。