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【創作】掌篇小説「楓、Chapter One、コーラ」

 月曜日の朝、二年生のときには必修の授業が入っていた一限目の時間に、わたしは先輩とこうして勉強をしている。今年入ったゼミナール。大学院生の先輩は、授業の補助で参加している。

 ゼミナールの先生は、分からないところがあったら、作陽さんに訊くようにと言っていた。だから、いつも質問をこしらえて、授業の終わりに先輩のところへと向かった。そのおかげで、わたしが卒業論文で書こうとしているテーマが、先輩の研究テーマと少しだけ重なっているということを知ることができた。

 そして、そのテーマで論文を書く上で眼を通しておくべき記念碑的な先行研究を、一緒に読むことになった。先輩は、「自分の復習にもなるし、やる気のある後輩のためになるのなら」と言ってくれた。質問を絶やしたことがなかったことが、功を奏した。

 先輩に褒めてもらえるような質問をするために、熱心に授業を受けているうちに、わたしは勉強が好きになってしまった。大学院に進学したいという気持ちが芽生えてきた。わたしが院進するころには、先輩は卒業しているかもしれない。それだけは、どうしても寂しい。

「Famous historian John Pons argues that……ここは、ポンズという歴史家が“that”以下のことを主張しているという意味で、ようするに、ここから数ページは、先行研究ではこのようなことが議論されているという紹介をしているの。それで、ここから二行目。このポンズという歴史家は、……roles of these media, however, are not only……つまり、先行研究ではメディアの役割が過小評価されているけれど、ほんとうは重要なファクターなのだと彼は主張してる。その理由は“not only”以下に書いてあるの。そしてこれは“not only A, but also B”という構文になっていて、それで――」

 秋の爽やかな風が色づいた樹々の葉を揺する音のなかに、朝陽の昇る海を羽ばたく渡り鳥のような静謐な力強さと繊細さを醸す先輩の声が織りなされる。

 開け放した窓から楓がひとつ入りこんで、先輩の肩越しから開いたページへと逢着した。

「今日はここまでにしなさいって、綺麗な栞が落ちてきたわ」

 先輩は、引き締まった人差し指で、ひんやりとしていそうな下まぶたを、やわらかく拭った。

「来週は、Chapter Oneの半分まで済ませてしまいましょう。このペースだときっと、Twoに入るのは来年になりそうね。でもそのころには、わたしがいなくても読めるようになっていると思うわ。期待してる」

 先輩は、博士課程に進むらしい。でも、別の大学を希望しているとのことだった。修士論文を書いていくなかで、自分の研究をもっと深化させるためには、他の研究室に渡った方がいいという結論になったらしい。

「食べる?」

 先輩は桃色の半透明の袋から、小さな球のような形をしたものを取り出した。そして唇のあいだに添えて、人差し指で押し込むようにして食べた。

「コーラの実。わたしの彼氏がね、西アフリカを旅していたのだけれど、そこでお土産に買ってきてくれたのよ。よかったら、一粒食べてみて」

 袋には、有名な洋菓子店のロゴが印字されていた。期間限定で販売された、あのお菓子の袋。およそ半年前の三月の中頃から、この袋をとっておいたのだろうか。先輩が、ちょっとだけ憎らしく思えた。

 それからというもの、自販機でもスーパーでも、コーラを使ったものを買うことは一度もなかった。

 先輩と途中まで読んだ本は、大学最後の夏季休暇の最終日に眼を通し終えた。卒業してからもずっと、先輩に教えてもらったところだけは頭の中に残っている。

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