尼僧の懺悔8

いつからだろうか、寺の太い梁を見ると首を吊りたくなった。

逆流症食道炎になって以降、瑣末な病気にかかり続け、月の大半を寝て過ごすようになって以降、頻繁にそう思うことが増えていた。

なぜかその衝動は唐突に湧いてきて、甘く私を誘ってくるのだった。
縄を梁にかけて、首に縄をかけて、踏み台から降りるその瞬間を、何度も夢想した。それは楽しみにしていたコンサートや、デートにいくのと同じような高揚感さえあった。踏み台を登る自分の顔は、笑みさえ浮かべている。
それでどうなるか、などは想像しない。
死んだらもちろん大騒ぎになって親も悲しめば師匠も迷惑だろう、それは分かっているのに、ただひたすらその瞬間に憧れるのである。
後先などない。

希死観念の理由や、それを望む心理を随分と考えて、自分の心を落ち着かせようとしたが、あらゆる理由を凌駕して、梁は私を誘惑した。
衝動的にセックスしたくなるように、衝動的に死にたくなるのである。
何を考えているのかと理性的に冷笑する自分の傍らで、本物の死神がこちらを窺っているのを私は感じていた。

皮膚科や耳鼻科や内科の薬を10種ほど飲むに至って、かかりつけの内科で心療内科への紹介状を書かれ、忙しい師匠に伴われて大学病院に通院したのは夏だっただろうか。
もはや季節の感覚もなくなっていて、いつも水中を歩いているような毎日だった。
1000番台を告げる大学病院の自動受付機の数字に、己の小ささと宇宙を感じるほどに、私の毎日は歪み、孤独で、他人事のようであった。

心療内科で数回の診察を経て、適応障害の診断を受け、転地療養を勧められた。
寺と師匠と環境そのものがストレス源なことは、医師に言われるまでもなく自分でもわかっていた。
分かっていたが、出家が寺に住めないということが何を意味するかを考えれば、そう簡単に医師の言うことを聞く訳にもいかなかった。

私は、こんな状態であっても、出家したことそのものには何の後悔もしていなかった。
見えない世界と見える世界を繋ぐ、究極のサービス業。
一世紀前の生活スタイル。装束、経典、漢籍、香木の香り、不文律。
それらすべてを愛していて、むしろ辞めるのが嫌だったから、命がけでしがみついていたのである。

ただ、人間関係が過酷すぎた。味方が一人もいなかった。
自分が迷った時に、その弱さを吐き出せる人がいなかった。
唯一の味方は、いつか自分から離れていくことが決まっている、年下の彼だけだった。
私は強く生きることを望むあまり、自分の内側にある脆さと全く向き合ってこなかったのだと思う。
鎧のように固められた私の体の中は空っぽで、それを埋める何か、たとえば夢とか、信仰とか、愛情とか、金銭欲とか、そんな類のなにかはついに見つからなかった。

尼として死ぬか、人として死ぬか。
人として死ぬことのほうが軽く思える程、尼であることはもはや私そのものになりつつあった。
もはや形を保つことこそ、生きる理由だった。

そうして終わりの日は唐突にやってくる。

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