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「信濃の子供 上巻」の続編に長野県農業会が戦後編纂した「信濃の祭」、戦時下の風景も含め、現代も続く行事に泣ける

 1944(昭和19)年3月に長野県農会が発行した「信濃の子供 上巻」に続く「下巻」は、完成間近に戦災で焼失しました(長野空襲が関係したかは不明)。一方、一水会会員で1944(昭和19)年8月に須山計一が故郷の信州に疎開のため戻ったところ「信濃の祭」の記録スケッチ製作を依頼されます。その集成が戦後に結実したのが1946(昭和22)年9月に発行された「信濃の祭」です。

糸で綴じている質素な製本が戦後を感じさせる「信濃の祭」

 「信濃の祭」にはスケッチに水彩を施した27点が収録されていますが、1946(昭和21)年の数枚をのぞき、1945(昭和20)年に描いた作品が中心で、戦時下の祭りも目立ちます。須山恵一の解説によりますと、空襲対策のため、本来は夜間に行う行事をやむなく日中に行った例や、戦時下で行えなかった祭もあったようです。それでも「苛烈な戦争下に於いてさえ、村々に昔ながらの祭の行われているのを見て、その美しさ、尊さに言いようのない懐かしさと慰籍とを与えられるのだった」と書いています。
 発刊の言葉も同様の内容がありますが、日中戦争に全くふれていない点、軍閥官僚が引き起こした太平洋戦争という認識が、引っかかる所です。まあ、そこから被害者意識が出てきたのかもしれませんが、とにかく、伝承した祭の様子の一部をご覧ください。

1946年1月6日・おびんづる回し

 善光寺本堂内にある「びんづる尊者」の木造を、しゃくしで叩きながら堂内妻戸の柵の周りを3周して元に戻すもの。しゃくしは病気を「救う」という語呂からきており、使うのは12本で12カ月を意味するということです。

1946年1月15日・野沢の火祭り

 現在も野沢温泉村で続く祭り。道祖神祭りの一形態でもあり、五段構えの船形に組んだ櫓を護る側、攻める側に分かれ、攻める側は道祖神の世話役から火を受け取り、それをもとにつけた松明で船形を焼こうとし、船形に上った側はこれを阻止。幾度かの攻防を繰り返したのち、手締めが行われ、火がつけられる。火を翌日昼頃もえつきるという。

1945年6月5日・端午の節句

 描かれたのは、南佐久郡北牧村(現・小海町、佐久穂町)。月遅れの端午の節句で緋鯉と真鯛が空を泳ぎ、武者幟がはためいています。農家もこの日ばかりは柏餅や粽を作り、子どもは菖蒲で鉢巻きをすると、母親らが来て腰に回した菖蒲でしごいて虫下しや病気退散の歌を歌うという。

1945年7月1日・島立の裸まつり

 松本市の西となりにあたる島立村(現・松本市)の堀込集落に水神津島様のほこらがあり、7月1日はこの宮の祭礼で、親玉(小学5年以上)、中玉(3,4年)、小玉(1,2年)の階級に分かれて行う。少年たちは色とりどりのふんどし姿で、勢ぞろいすると「ナンヨリ、コヨリ」と連呼しながらそれぞれが旗幟を担いで走り、最初はほこらを3周、それから集落を3周する。へとへとになり紙の旗もぼろぼろにしながら、最後は旗をおさめて、近くの川に飛び込んで沐浴する。形態は変化しているが、これも現在まで続いている祭りです。

1945年7月24日・深見の水祭り

 下伊那郡大下条村(現・阿南町)深見の池で行う。山間には珍しい深い大池で一帯の灌漑にも使われているため、古来から神聖視されてきたという。人魚伝説の伝承もあり、7月24日にはいかだを浮かべ、竿灯を立てお舟祭りを行う。これは知らなかった中の人。

1945年8月14日夜・新野の盆踊り

 室町時代以来、500年以上続くとされる。町の中央に櫓が立ち、老練な歌い手に合わせ当時最大2000人くらいの踊り子の列が続いたということです。踊りは、かつて貧しく精霊祭のできないものに富者が心から施米したという内容の歌で始まり、メインの8月は13日から16日まで踊り抜き、17日の朝、踊りを続ける若者が神送りの人を押しとどめつつ、名残を惜しむのがクライマックスだ。
 この絵が描かれたころ、大日本帝国は無条件降伏の受け入れを決定していた。しかし、その日にこの祭りが営まれていたことは、小さな地域であっても伝統を守り抜く意地があった、本当の日本の地力を示すものだろう。

1946年10月6日・浅間の火祭り

 東筑摩郡本郷村浅間温泉(現・松本市)で行う。浅間では麦わらを束ねた大きな松明をつくり、燃え上がるそれを担いで温泉街を練り歩く。時には転がしたり、放り投げたり。最後に町の近くの川に投げ込む。翌日が本祭りで、めぼしい家々に担ぎ込まれるあばれ神輿で、入られた家々では若者を歓待することになっているという。

1945年12月10日夜・遠山の湯立祭

 下伊那郡木澤村(現・飯田市)のもの。八幡社で湯をわきたたせ、いくつもの面をかけた神々が踊り、素手で沸き立った湯をはじいて周囲に飛ばす場面で知られる。遠山の霜月まつりとして、現在も伝承されている。
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 信州は縦横に広がり、山や川で隔てられ、ともするとまとまりがないとされるが、そのおかげで豊かな伝統が残ったといえるでしょう。国家が圧力をかけようとも、譲れないところは譲らない、そんな力を感じました。

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2024年7月5日 記

 

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