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満蒙開拓青少年義勇軍の性格を最もよく伝え、そして悲しい弔辞

 2024年の第8回展示会「戦争だ! 女、子供も! ついでにビールも!」展の最後にあったこのパネル、長文の弔辞について、お気づきになられたでしょうか。そして、なぜこの弔辞を、国内では国民義勇隊が結成され女子も武装化していたこの最後の時期に、ここへ掲示したか。

左上のパネルの左下方に弔辞を掲げました

 この弔辞、戦後の1947(昭和22)年10月8日に、長野県上伊那郡南向村(現・中川村)で行われた小池陸軍兵長の葬儀にあたり、有志代表として当時の村長が読んだものです。

日付は戦後
村長が有志代表という立場に戦後を感じる

 この弔辞、ただ兵長の葬儀というだけの意味ではないのです。実は小池兵長は、満蒙開拓青少年義勇軍の第二次曙義勇隊開拓団、216戸226人の1員として1939(昭和14)年4月17日に茨城県の内原訓練所に入所、2か月後に渡満し、現地訓練所での訓練を終えて、北安省通北県鶏走河へ1942(昭和17)年10月3日に入植します。既耕地は全くなく、自力での開墾となった。なお、日本では義勇軍と呼んでいましたが、満州ではソ連や現地の人たちを刺激しないよう「義勇隊」と呼んでいました。

意欲的に義勇隊に参加、中核として働いていたとある

 一方、1943年11月に入ると主力の60人が兵役にとられる。所詮、青少年義勇軍は関東軍の供給源であることを示した。労力不足を補うための花嫁招致運動が盛んになる。1944年、ようやく大豊作に恵まれ10月、初の入植祭を行って活気づいている。弔辞によると、小池兵長はこののち、現役兵として満州第177部隊に入営、国境線の警備に就くことになったのは、ちょうどこのころのようだ。

「北辺鎮護の第一線」とあり、国境勤務を示す

 その後、1945年7月から大型動員が相次ぎ、小池兵長を含む前年からの徴兵入隊者を合わせ、追加を含め300余人になっていた団員も最後には幹部1人、団員5人となり、留守家族を入れても大人27人、子供10人の37人だけになってしまった。ただ、開拓団は既耕地を強制買収した開拓団と違ったので、現地の中国人との摩擦も少なく、終戦後も比較的平穏だったということです。いくつかの近隣の開拓団と合流するなどして耕作を続け、国共内戦の中、一部は炭鉱労働で長期抑留されたが、早いものは1946年に帰国。集団自決などの悲劇もなかったという。

 一方、記録がはっきりしている出征者199人中、8月のソ連軍の侵攻などで41人死亡、2人不明の犠牲者を出しています。小池兵長は平壌のソ連軍の収容所で抑留中、病気となり、1946年4月13日、平壌の病院で亡くなり、この1人として数えられます。

さぞ、帰りたかっただろう(T_T)

 そして葬儀が営まれたのは、このおよそ1年半後。ソ連軍占領地区のためか国共内戦の影響か、戦死公報が遅れたのでしょう。無念ではありますが、こうして消息が確認できただけでも幸いだったという面もあります。それほど、日本政府も外地邦人の保護を後回しにし、当初は現地に根づけとしていました。

ようやく葬儀を終えることができた

 国策で送り出され、国策で兵士にとられ、そして戦後も見捨てられるように亡くなった、満蒙開拓青少年義勇軍のひとり。国の言うことだから、と安易に信じてはいけない、普段から注視しなければならない、そんな当たり前で大事なことを教えてくれています。だからこそ、展覧会場の最後に、この弔辞を置きました。
           ◇
 政治は、常日頃から自分事として考えること。でなければ、どんなことが起きるか分からない。そんな先人の経験を忘れてはいけないでしょう。

(この項を書くにあたり、長野県満州開拓史各団編、名簿篇を参考にさせていただきました)

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