1945年8月13日、長野市と上田市が米軍艦載機の本格的な空襲を受けます。多くの調査の積み重ねが実態を明らかに。
2024年からみて79年前の本日8月13日、日本近海にいた米軍第3艦隊第38機動部隊所属の空母ハンコックとベニントンから出撃した艦載機、ヘルキャットとコルセアが長野県の上田市と長野市を空襲します。事前に米軍が長野県内にまいた伝単の予告通りでした。
空襲は13日麻から夕方まで波状的に行われ、艦載機の爆弾やロケット弾、機銃掃射などで、人的被害は現在の長野市(当時の周辺村落を含む)で少なくとも47人、上田市で1人の死亡がこれまでに確認されています。そして攻撃は主として長野飛行場と長野機関区に加えられ、それぞれ大被害を生じ、近隣の民家などで火災を発生。そして目立つ建物として狙われた陸軍の若槻療養所や篠ノ井女学校などにも攻撃が仕掛けられています。
長野飛行場では、掩体壕に隠された機体が次々と攻撃を受けています。長野県史の長野裁判所検事正から司法大臣に出された報国では「長野飛行場飛行機90機、長野駅貨車一列車、長野鉄道工場及び機関車十一両大破炎上、死者十名、付近民家約三十戸喪失」とあります。長野県は戦後まもなく、県内の空襲被害の数字として「死者40人、負傷者51人、戦災戸数119戸、戦災者1170人」という数字をまとめていますが、大部分は13日の空襲によるものでした。信濃毎日新聞は翌日1945年8月14日で、以下のように伝えています。
空襲の詳細は当時2ページとなっていた新聞の2ページ目の半分近くを割いて報道。被害については住宅火災には触れているが、極秘事項の長野飛行場、交通の要の長野機関区のことについては、この日はふれず「被害は軽微」としている。「被害は軽微」は、空襲報道の常套句。写真はグラマンの保存写真に加え、火災の消火にあたる人々をとらえています。
まあ、数千人、10万人といった被害を出した空襲に比べれば、田舎都市の微々たる数字ではあります。しかし、こうした小都市にも艦載機が、それも本州の奥深くの長野市までやってきていたのです。
住民も、不意を突かれてながめていたり、呆然としていたようです。
空襲から翌々日、8月15日朝刊2面では、「長野市の戦訓」として小型機にも注意する備え、機銃を浴びながらも運転を継続させようとした鉄道戦闘隊(国民義勇戦闘隊の唯一の発足部隊)の決死の話題、さらに罹災者への特別配給やロケット弾に堪えうる防空壕の必要性を訴える記事などが並び、その衝撃の大きさが分かります。
通常、大手紙は8月15日の朝刊は昼頃、天皇の終戦の詔書を掲載して配布しています。信濃毎日新聞は、この空襲の話題を伝えるためか、通常通り朝刊を発行し、詔書を掲載した朝刊は8月16日付で15日に配るという技を使っています。おそらく、16日の朝刊は割当の用紙を使ったため、休刊になったとみられます。
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この空襲、県の発表以後、1980年代に民間の調査が進み、死者数が改められたり、攻撃の全体像がつかめるようになってきました。先人の積み重ねに加え、米国の資料も含めて調査されるなど、かなり明らかになってきました。こうした調査に敬意を表するとともに、例えば篠ノ井女学校にロケット弾が撃ち込まれたが不発だったのが幸いした、当時は学校工場だった、といった話が高校でなされているでしょうか。
さまざまな資料で郷土を記録し、伝えていく。これは文化や産業に限った話ではありません。戦争という国の暴挙も、その結果も、きちんと伝えてこそ、未来を拓く道が見えてくると信じて疑いません。
歴史を学ぶ、歴史を知る、ということは、過ちを繰り返さないということです。最近、外国人を排斥するため「自警団」を名乗るグループまで出てきました。配偶者が外国籍だと団員にしない、3代遡って外国人がいない人しか団員にしない、という「自警団」が何をしでかすか。「温故知新」という言葉をあらためてかみしめたい。
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