「合法」なのに「鉄槌」。権力者が使う「法」とは。少し考えてみたらどうか。
こちら、日中戦争が本格化して間もない1937(昭和12)年12月22日の新愛知号外。「三百余名を一斉検挙 合法左翼派に鉄槌!」という見出しが躍り、「従来合法的範囲内に留まりつつ最左翼的傾向を持してきた無産団体の動向に対しては深甚の注意を払って来たが、このほどに至りいわゆる『労農派』評論家グループ、日本無産党、日本労働組合全国評議会(全評)等の最近の行動は、明らかにコミンテルンと究極において目標を同じくし国内治安を乱すものとの見解に到達」したから371人を検挙、治安維持法違反被疑の確証を得たので結社禁止処分にした、と。
「警官隊が寝込みを襲い 疾風的に総検挙」とあるが、逮捕には戦前だって深夜は避けることとか、いろんな取り決めがあったのに無視。新聞もそうした点には触れない。むしろ、大活劇大活躍警察の巻といった書きっぷり。
「合法手段で勤労大衆左翼化の裏面」と見出しがあるが、「合法手段」による運動の何が問題なのかは明示されない。「彼等の運動がコミンテルンの人民戦線運動と相似たるため」だそうだ。記者は発表を聞いて疑問に思わないのか。新聞社の整理部員は自分の付けている見出しの矛盾に気づかないのか。
そして、当局の談話をそのまま垂れ流します。そこには、戦時下だから、規制を仕方ない、という消極派から、大いにやるべしという積極派まで幅はあったとしても、戦争への協力という一点で、権力者のやることを追随しただけといっても良いのではないでしょうか。「多数の証拠物件押収」ともありますが、何の証拠かも明確ではありません。「党を拡大強化」とか記事にも見出しにもありますが、結社が拡大を目指すのは当然で、それをおかしなことのように見出しにするのはますますもって、恥ずかしいこと。
治安維持法などの弾圧法は、必ずどうとでも取れる、権力者側の裁量を残しているのが特徴です。大日本帝国憲法も、そのあいまいさによって、よくも悪くも使えたのです。
翻って、現代はどうでしょうか。国民主権の国で国民が権力者を監視し、悪法の成立にはおかしいと声を上げるのが当然であり、なんなら阻止行動(デモ、街頭演説、集会など)だって当たり前に認められている。それは権力者の差配にまかせた帝国の政治に対する反省から来るものではないでしょうか。堂々と、おかしいことに「おかしい」と言わなくなり、「おかしい」と言う人を「ルール」「ルール」と抑え込むような人たちが跳梁するようでは、主権の位置が逆転するのは目に見えています。近年は警察側も令状なしで動画撮影する、押収物の中身をいじるなど、おかしな動きが出ています。これは、そうしても批判されないという読み、空気を感じるからではないでしょうか。
もう二度と、この号外のような報道は見たくないし、権力の弾圧も決して再現させたくないです。
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