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明治期の日本陸軍の弾薬箱、さすがに頑丈で第二、第三のご奉公中

 木曽でお世話になった人のお見舞いに行った帰り、定番のお菓子屋さんへよると、お隣の店のこれも顔見知りのご主人から、戦前か戦後か分からないが、弾薬箱をもらったから持ってきてあげると言って、すぐに自宅へ飛んでいきました。実は、古物を扱っているこのご主人に、戦争中のものを見つけたらとっておいてほしい、とお願いしてあったのです。間もなく持ってきてくださったのが、表題と下の写真のものです。

補強の金属板もある、しっかりしたつくり。

 がっしりした木箱で、ロープの取っ手もいかにも丈夫そうです。ふたに「三十一年式速射野砲 榴霞弾弾薬箱」と右横書きで書いてあります。戦前の横書きはどちらから書くというルールがなかったのですが、現在は左書き(1942年に国語審議会で決定されていましたが、閣議決定は戦後)に統一されているので、右からの横書きであれば、戦前のもので間違いありません。
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 そして、日本軍の兵器は「○○式」とつくことが多いのですが、これは、その兵器が正式採用された時代の年号をとってあります。では、「31年式」は、何の31年か。昭和の31年は戦後ですから外れます。
 では、「皇紀」、つまり、神武天皇から連なる日本の年号の末尾かと考えてみました。例えば、有名な「零式戦闘機」(ゼロ戦)は、皇紀2600年の昭和15年(西暦でも1940年)に正式採用された戦闘機なので、そう呼ばれたのです。

 でも、2531年では、ほとんど明治初期になってしまい、これもおかしい。そこで思い出したのが、明治時代の兵器は明治の年号をそのまま使っていることです。明治31年(1898年)正式採用の砲ではないかと調べたら、確かに「31式速射野砲」がその年の採用で、日露戦争(明治37、38年=1904-1905年)当時の日本軍の主力兵器だったことが判明しました。
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 ちなみに、木曽の農家がご主人に譲ってくれたとのことですが、経路は不明。しかし、いまでも狂いがなく、ふたにはブリキの裏打ちまでしてあります。兵器の更新で不要となった弾薬と弾薬箱のうち、弾薬箱だけ民間に払いさげられたのか、兵営から兵士が不用品として譲り受け持ち帰ったのか、どちらかであろうと推察します。

ふたにはブリキの裏打ち、板の厚みもけっこうある。

 箱の内部に残っていたごみから、もみや、豆類の保管に使っていたようです。かつてはネズミが大変多く、その対策に農家は悩まされていましたが、職人の技を感じさせるこの箱はネズミにかじられた様子もなく、十分余生も活躍したといえるでしょう。

鍵もしっかりしていて、ネズミに開けられるものではありません。

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