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大日本帝国の大和魂を育てたのは熱い銭湯らしい、明治と昭和の街の声

 時として、時空が離れているのにそっくりな表現を見かけることがあります。そして、趣旨もそろって同じ。それも、戦前の日本が誇る「大和魂」について、共通の見解が示されているのが面白い。という訳で、全文著作権切れによって転載などしてみたいと思います。

 まずは日清戦争下、1895(明治28)年2月10日発行の「風俗画報」より。

明治時代の世間一般を記録した「風俗画報」

 この中に、東京のある銭湯でのやりとりに目を引かれました。差別意識丸出しでよろしくないのですが、我慢して読んでみますと…

「風俗画報」銭湯の情景

 「湯屋の中。(略)児童アツシアツシと親に訴れば父は叱りて。『此位な湯に我慢ができずは。兵隊にはなれむぞ。シッカリシロ』といへは。児童も已むなく入る。(略)『ソウデス。其故我帝国は弾丸硝薬といふ。極く利のよい薬湯を浴せ洗て居る最中ナノデ。然るに泣きながらこれを拒むというは。まるで児童のやうでス。』児童「坊は洗わせて居るよ。支那人と一所にいわれては。イヤヂヤイヤヂヤ。」
 まあ、俗っぽい雑誌ですから。熱い湯に我慢して入らないと「兵隊さんになれない」という脅しでしぶしぶ入ると。たしかに、〇〇しないと立派な兵隊になれんぞ、という殺し文句はあちこちであったようです。熱い湯に無理につかるのが心身の鍛錬にもなる、というのは後付けで、単に親が子どもに言うことを聞かせるための常套句ですね。でも、そういわれ続けた子どもはどう感じたでしょうか。

 もう一点はそれからほぼ半世紀の49年後。太平洋戦争下の1944(昭和19)年3月1日付信濃毎日新聞夕刊に掲載されていたコラム欄「高原指標」の「それでも日本人か」です。

長野保護観察所長・花輪長治のコラム
各国から日本に来た学生の帰国前座談会の記事を読んだと

 大東亜共栄圏内からの留学生の座談会の記事を紹介。「日本に来て何を学びえたか」をきいたところ、これといってお話する何も得なかったというのが大体の一致する答えだったところ、一人の中国学生が次のように言ったと。「唯一感じた事がある(略)ある時銭湯で熱いお湯につかっていると其処へ五、六歳の男の子を連れた中年の男が来て子供をお湯に入れようとした。子供は熱いといって泣き出した。すると父は『この位のことで泣てどうする。それでもお前は日本人か』と言いなだめながら子供をお湯に入れた(略)これを見て日本精神の真の姿はこれだなと思ったと。」

以下、吉田松陰の「大和魂」に飛躍

 正直、銭湯の情景以外、学ぶことがないという状況を憂えるのが本筋と思うのですが…。
 筆者は「いかにも面白い」と感じ、戦争で弾や食料がなくなれば降参するのが外国人で、彼等には父も言葉は理解できないとし、我慢して入る子供を楠公精神に通じると持ち上げています。そして、楠公兄弟の精神が日本魂の神髄と一人、話を広げていき、増産で締めています。
           ◇
 銭湯に我慢して入るのが日本魂の神髄とは、とりあえずいうことを聞かせる親の常套句とだぶって見えて滑稽です。これでは大和魂、日本魂と言っても、それは我慢強さというのと同義語ではないかと。
 明治の雑誌記事は、まあ、ああよくあるなあで済ませることもできますが、昭和のコラムはー文章の性格は違いますがーあまりにも我慢の持ち上げ過ぎではないでしょうか、と論ずるのも恥ずかしい。恥ずかしいけど、これが通るのが戦時下と、その異質さを実感します。

 急速に銭湯は消えていて、温泉も適温が一般的になってきている現代。この話者の言う通りなら、大和魂、日本魂も銭湯とともに消失していくのではないかなあと、いらんことを考える中の人なのでした。

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