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大慌ての新聞社からの手紙が物語る戦局の悪化

 表題写真とこちらは、長野県の諏訪地方を管轄していた朝日新聞諏訪通信部が、諏訪郡原村の戦死者遺族にあてて1944(昭和19)年5月2日に差し出した速達の手紙です。

印刷した既存の文面に線を引いて文を直した速達
速達で送ったことがわかる封筒

 内容は、「興亜の礎として御戦死遊ばされ御家門の誉とはいへ御家族のご胸中いかばかりかと御推察申し上げます」などとお悔やみの便に続き「来たる五日海軍省より戦死公表せらるるにつき御写真を紙上に掲載致したく存じます」とあり、事前に報道機関に戦死公表予定が知らされていたことが分かります。これを受けて、戦死公表に合わせた記事に掲載する写真を求めるものです。

お悔やみを述べつつ、5日の戦死公表があるため写真を求める内容
印刷して用意してある文面を転用してある

 写真とともに、両親や兄弟の名前も添えて至急通信部に送ってほしいと希望しています。靖国神社合祀の際の印刷文を転用し、書き込みや消しをしているところが、礼を失するとは分かりながらも送らねばならないところに、戦局の悪化が見えます。

写真は複写して保管していたようです

 この当時の紙面での戦死者報道の様子を見てみます。少し前の1944年2月26日の朝日新聞ですが、この時は朝刊も4ページだけになっています。一面はクェゼリン、ルオットの玉砕の報道。前年までは玉砕の言葉を大本営報道部は使っていましたが、あまりにも玉砕が続くので「全員壮烈な戦死を遂げた」との表現に切り替えています。(これだけを持って、これは玉砕ではない、と仰る方がおられましたが、実態は玉砕です。玉砕自体が戦死を美化する言葉なので、むしろ新しい表現の方が良いかもしれませんが)

クェゼリン、ルオットの玉砕を伝える紙面

 4面が地域面となっていて、これは静岡版です。戦死者がまとめて掲載されていて、写真も小さく掲載しています。先の手紙のようなことで集めたものかもしれません。日中戦争初期は、戦死者の写真も2段、3段と大きく扱い、経歴に加え親族を訪ねて写真や談話を載せるなど手厚く報道していたのですが、太平洋戦争期には、戦死者が多いこと、紙の割り当て削減による紙面の狭隘化で、以下に示すようなぎゅう詰めの形に変わっています。これも、戦局の実情を無言で語るものでしょう。

4面の半分ほどが地域版になっています。
戦死者の報道はここまで小さくなっています

 先ほどの原村出身の海軍の戦死者も、「大東亜戦の華」と題して、似たような形で掲載されたのでしょう。この年には命を捨てさせる特攻も始まり、人の命の扱いがどんどん粗雑になっていくように感じるのです。島嶼で補給もほとんどできないし後詰の部隊を送ることもできないのに、部隊だけばらまくやり方も、それは見殺しであり、特攻隊と近い思想かもしれません。

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