兵役の義務があった大日本帝国下では、徴兵に備える「徴兵保険」があり、各社が成績を競っていました
大日本帝国憲法に「兵役の義務」が明記され、それを受けた徴兵制度があった戦前には、徴兵保険という保険がありました。男児が対象で、20歳の満期時に現役兵として徴兵されれば保険金が下りるという仕組みでした。また、現役で召集されなかった場合にも、満期金が下りる、今でいうところの生存保険のような役割も果たしました。
一般社団法人ん生命保険協会の調べで見ると、最初に徴兵保険会社ができたのは日清戦争後の1898(明治31)年のことでした(当初は徴兵保険株式会社、1925年(大正14)年に第一徴兵保険株式会社に改称)。
その後も、1911(明治44)年に日本徴兵保険株式会社、1922(大正11)年に国華徴兵保険株式会社、1923(大正12)年に富国徴兵保険相互会社が登場しています。
徴兵保険への加入は、男の子が生まれるとすぐに入るケースも多く、これは、各社の「代理店」と称する勧誘員が地元で聞きつけてすぐに勧誘に来たからとみられます。下写真右の案内パンフには長野県武石村の代理店を引き受けた個人名入りのスタンプが押してあり、名刺代わりになっています。
徴兵される20歳という年齢は、当時、既に職場では仕事も覚えて十分戦力として期待される世代。特に大多数を占めた農家では、大変貴重な働き手です。これが現役兵として2年間の入営生活を送るとなると、家計の痛手は免れません。家族経営の商店や個人経営の職人だったりすると、顧客をライバルに奪われて大きな影響を受けるということもあったようです。
また、出征時や、満期除隊に備えて、さまざまな出費をまかなうという狙いもありました。それだけに、もしも、の徴兵に備えるのは、当時の庶民にとって大切なことで、各社とも実績を伸ばしました。
一方、せっかく勧誘員が足を運ぶのですから、男の子だけではなく、女の子向けに結婚支度の出費にあてる「花嫁保険」を扱う場合もありました。
しかし、1945(昭和20)年9月2日の無条件降伏を機に軍隊がなくなり、徴兵保険も無用となります。このため、各社とも既に契約していた徴兵保険は生存保険へ切り替えると共に、社名もそれぞれ変更することになります。1945(昭和20)年10月16日の信濃毎日新聞には、大蔵省などとも相談したうえ、各社共同で契約の変更点や社名の変更を説明する広告を出しています。
戦争が終わって、徴兵保険会社はいずれも生命保険会社となり、合併した会社、現在も存続している会社、それぞれ、平時の「もしもの備え」を支える役割を果たしています。徴兵保険の復活を必要とする時代を、二度と来ないようにさせなければと思っています。
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