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日清戦争当時、ちまたではやった戦争便乗景気と、子どもたちの戦争ごっこー風俗画報より
明治時代の風俗や出来事を記録した東洋堂発行の「風俗画報」第85号=1895(明治28)年2月10日発行=は、まだ日清戦争中とあって、子どもの遊びにもそんな戦争気分があふれていた様子を記録しています。
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著作権切れでもあり、東京の戦時便乗風景と、子どもたちの様子を抜き書きしてみます。
(転載ここから)
「新年の初荷は、従来車上に松に日の出、あるは大海老などの飾り物をなし、その屋号を記したる旗を押し立て、笛太鼓にて囃子挽き行きしか、今年はかかる陳とうを襲わず。新たに車上に船をしつらえ、真ん中に旭日旗または帝国万歳なを大書せる旗を立て、左右前後に支那人の首級に擬したる球燈を掲げ、店の若き者は皆海軍の服装を為し、ラッパを吹き、勇ましき軍歌を唱えて練り出でたるさまは、時にとりての好趣向にて、遭う人亦喝采せざるはなし」とあります。
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このほか、芝居や講釈師も日清戦争モノに切り替えた様子や、刀剣店などの繁盛ぶりが書かれています。こんな環境下にあっては、子どもが影響を受けないわけはありません。
「童子の遊戯は、時に従って種々変化し、常に何事も模倣する者なり。故に征清の役興りし以降は、皆隊を組み団を成し、手に小国旗を打ち振り、軍帽に擬したるを戴き、小さき剣などをおび、意気揚々として一人が山縣大将と名乗れば、一人は大山大将と称し、溝渠を鴨緑江と見做せば河岸をば旅順港と仮名し。虫拳にあらざれば相撲を試み、負けたる者を支那人と唱へ、これと擬戦を為し。我が軍の方いつも強く、時々凱歌を奏して老婆までを驚かすに至れり。若し在留せる真成の支那人過ぐるあれば、合意剣撃を為すにそ、利口なる者は「ワタクシ降参、日本タイソウ強フアリマス」などと言いて僅かに逃れ去る者多し。
(以上、転載終わり)
まあ、子どもだから許される面もあればこそ。ただ、これがそのまま大人になったり、大人がまねたりしてはいかんのですが、どうも蔑視感情がしみとおった様子で、そのまま今まで尾を引いているかのような不安も感じます。
◇
戦争ごっこの様子を描いた挿絵もありました。大部分は普通の服装ですが、大将クラス?は軍帽や軍服、旗などで威勢が良いです。
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この戦争ごっこの場面は、おそらく地区の小正月行事どんど焼きに使う松飾の争奪戦のようです。よそよりうんと大きなものをつくるのが、このころの地域同士の力の示し合いだったのでしょう。こうした行事を通じて、上下関係や統率力、行動力を理解するなどして社会に出ていったのでしょう。上に良い人物を得れば良い経験となるでしょうが、そうでなければ大変です。
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子どもの集団にとどまらず、国のトップに国民を思う人間が立つことは大変重要なことだと思います。そのようなトップを育てる気概が、国民の中にあるか、が現代では問われているのだと思います。
2024年6月5日 記
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