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戦時下一切報道されず、消されていた特攻隊員・奥原英孝伍長(戦死)は長野県安曇村(現・松本市)出身者と判明

 2024年10月7日の信濃毎日新聞に「消された 信州出身特攻隊員」「奥原英孝さん 飛行場で戦死で報道統制か」と題した記事が社会面に掲載されました(リンク先の記事は有料ですが、無料会員登録のみでも月間5本の記事を読むことができます。この記事も読めます)。

陸軍初の特攻隊「万朶隊」の一員、奥原英孝さんを追う記事(2024年10月7日・信濃毎日新聞)

 記事によりますと長野県伊那市出身で筑波大学名誉教授の伊藤純郎さんが調査中で、伊藤さんによりますと「特別攻撃隊全史」(特攻隊戦没者慰霊顕彰会)で奥原伍長の名前があり、最近まで長崎県出身とされていたのが長野県出身と改訂され、情報を呼びかけているというものでした。
 奥原伍長は万朶隊として1944年11月12日、15日と2回出撃するも機体の不調などで帰還。「不死身の特攻兵」として知られる同じ万朶隊の佐々木友次伍長とともに、3度目の出撃準備中だった1944(昭和19)年11月25日、米軍の空襲で飛行場で戦死しています。
 佐々木伍長については最初の特攻でレイテ湾まで出撃し、爆弾を投下して別の飛行場に着陸したのですが、別の飛行場に着陸したため敵艦に突っ込んだと判断され、大々的に報道されました。しかし、奥原伍長は機体の不調で元の飛行場に戻ったからか、一言も触れられていません。伊藤名誉教授は、突入できないまま戦死した奥原伍長のことは、次に続く特攻隊員志願のことを考えて情報統制された可能性を指摘しています。

1944年11月14日付朝日新聞。佐々木伍長は戦艦に突入したことになった

 その後、1944年11月25日、陸軍省は佐々木伍長の生還の事実は伝えます。しかし、同日地上で戦死した奥原伍長のことは発表されていません。特攻隊員として選ばれたものの、突入の機会が一度もないまま戦死したため、報道されなかったとみられます。

1944年11月26日付朝日新聞。万朶隊のことが天皇に報告され感状が出たと。

 そして1944年11月29日情報局発行の「写真週報」第349号は、陸軍初の特攻隊「万朶隊」を大きく報道しますが、出陣前の写真には、本来写っているはずの奥原伍長の姿がありません。

写真週報349号
万朶隊の出撃写真。本来は右端に奥原伍長の姿がある

 生前の佐々木友次さんに取材した鴻上尚史さんの「不死身の特攻兵」には、奥原伍長も含まれた毎日新聞社提供の写真がありました。鴻上さんの原作で東直輝さんが漫画に描いた「不死身の特攻兵」の第3巻には、この写真を基に描いた場面がありますので比較すると、奥原伍長が切られていることがはっきりします。写真週報の写真でも、奥原伍長の腕の一部が写っているのが分かります。

原作「不死身の特攻兵」
漫画「不死身の特攻兵」
写真週報と「不死身の特攻兵」第3巻の場面の比較。毎日新聞社写真でも5人が写っている

 また、万朶隊の訓練と出撃を扱った「主婦之友」1945(昭和20)年1月号でも、佐々木伍長の生還は書かれていても、奥原伍長が出撃したことは触れられていません。

「主婦之友」1945年1月号
万朶隊のルポを掲載
万朶隊員に奥原伍長の名はない。
最初の出撃。5機発進したのに4機の出撃になっている。
佐々木伍長の生還は書いてあるが、奥原伍長は触れられていない。

 そこで信濃毎日新聞が報道したところ、記事を読んだ松本市の男性80歳が「自分はおいだ」と名乗り出たことが、10月11日付同紙で「消された特攻兵は『私の叔父』」「旧安曇村出身」「遺品の写し託す」と報道されます。

奥原伍長の出身地も判明

 この記事によりますと、奥原伍長は長野県南安曇郡安曇村(現・松本市)出身で、出撃前に家族に宛てた手紙3通とはがき1枚、それに写真が大切に保管されていたということです。父親が奥原伍長の兄だったというこの男性によりますと、遺骨はなく、現地のものとされる石が届いたということで「戦争の歴史を正確に残してほしい」と話したということです。
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 奥原伍長については、不死身の特攻兵でも丁寧に描写されていますが、戦時下報道では徹底的に伏せられていたことが明らかになりました。そのせいで、戦死の状況も家族には伝わっていなかったと思われます。
 長野県では、神風号で知られる飯沼正明さんが、地上の事故死を逆に機上での作戦中の戦死とされ、戦意高揚に使われています。奥原さんの場合は、これとは正反対にあります。死してもその扱いは軍の事情が優先される、これが戦時下の情報統制の姿であり、数々の言論統制法規に縛られていた事情はあるにせよ、それに乗っていったマスコミの姿でもあると思います。
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 情報を国が握って調整してくるようになったら、要注意です。今も「答えを控えさせていただく」というごまかしが、政治から民間まで広がっています。正しい情報の大切さを、今回の記事と戦時下の資料が伝えてくれているように思えてなりません。


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