突発的に発生させた満州事変での献品は、軍にとって二重の意味で嬉しかっただろうー謀略から国策に
大日本帝国陸海軍への献品の続きです。1931(昭和6)年9月に中国に駐留していた関東軍の謀略による柳条湖事件で勃発した満州事変での軍への献品・献金については、陸軍省が「国防献品記念録」として、塘沽協定で満州事変が1933(昭和8)年5月に終了したあとの7月にまとめられました。
これによりますと、献納者数は米国、ハワイなどからも含め1,600万人余、総額993万円余となり、帝国在郷軍人会が事務を扱って必要な兵器を調達したということです。1機7万円とされた戦闘機を始めとする軍用機だけでも90機ほどが献納金500万円余によって造られていて、戦争を前提として予算などを準備していなかった陸軍にとって、この献金による兵器の買い支えは大いに役立ったといえるでしょう。
飛行機の充足に加えて、高射砲など防空兵器をそろえたのも特徴でした。陸軍は日本の防空の責任者であり、しかも縦深の浅い国土を守るためには、一層の防空が必要と意識されていたでしょう。長野県の片倉製糸紡績会社と関連会社からの献金は、それらの充実を主にしたものとなっています。
そしてこうした実利面だけでなく、献納運動や個人の関心が、陸軍の行動を後押しする世論につながっていたことが重要なポイントです。関東軍でも満州事変の謀略を決行するかどうか決心が付きかね、最後ははしを倒して決めようとし、中止と一旦は決めたものの、やはりやると揺れ動いていたぐらいでした。
ところが、矢継ぎ早の攻撃が功を奏してか、マスコミも基本的に戦況報道一色となり、臣民の同調を得ることに成功します。例えばこの記念録では、満州国建国から各国の眼をそらすために起こした上海事変も一体に扱っていますが、40ページにわたる献納美談の中には、その際の爆弾三勇士に感激してといったものもあります。
そして1932(昭和7)年1月から翌年6月までの「国防献品月別取扱金額統計」を見ますと、いくつかの山がありますが、それがどこにあるかが興味深いところです。
苦戦が伝えられた上海事変が終わり満州国建国で一旦伸びが収まっていますが、リットン調査団の中間報告発表と馬占山軍掃討で盛りあがりを見せます。そして次に盛り上がるのが、リットン報告書の扱いを巡って国際連盟脱退に至る時期と熱河作戦の時です。
どちらも戦闘が起きた時だけではなく、国際社会との対立が重なっているのが特徴です。国際的な孤立という新たな要素が「一時沈滞セル我国民ノ愛国心ヲ振起セシメ」(記念録編纂ノ趣旨より)たのが数字に現れたのは間違いないでしょう。これは、同時に政治より軍の力を過信した人々と軍官僚の思いも現わしているのかもしれません。「連盟何するものぞ」と。