敗戦後に届いた、陸軍大臣感謝状配布の依頼
戦時下、さまざまな団体や個人が戦争遂行のため、進んで、あるいは強制的に、さまざまな献金や献納をしていました。こちら、長野県中沢村(現・駒ケ根市)高齢会が1943(昭和18)年12月に取りまとめた陸軍への飛行機建設資金献金名簿です。各区の高齢会が出した献金者名簿をとりまとめた冊子ができたので、回覧をするようにとしています。
中沢村に11の区があり、合計7,023円(現代でみると700万円以上か)となっています。誰がいくら出したかすぐ分かります。これでは出さないわけにはいきませんし、それなりに金額も考えねばならなかったでしょう。
この献金が長野連隊区司令部に航空機増産のためとして収納され、献金者への領収書が届いたので、各区の高齢会代表に届けるとする中沢村村長からの書類が1944(昭和19)年4月3日に伝達されました。こちら、本曽倉区の代表に宛てられたものです。
こちら、領収書です。割り印も押して、ひとりひとりに出されています。意外と丁寧な処理で、時間がかかったのでしょうか。受領日付は1月21日ですが、領収書作りはその後までかかったのでしょう。
同じ書類の束に、潤滑油をつくるためのヒマの献納記録もありました。中には一升も出した方もおられました。
さて、献納金の陸軍内での処理が進み、陸軍大臣からの感謝状も出された模様です。しかし、それを伝える中沢村村長から各区の高齢会代表への通知「兵第六五五号」は、1945(昭和20)9月6日付になっています。つまり、降伏調印の後の事です。このため、戦時下ならば勇ましい言葉が並ぶはずの通知は「大東亜戦争も必勝の念願報われず不幸なる終息を告ぐるに至り誠に残念に堪えない」とし、陸軍大臣の感謝状の送付があったので「御迷惑ながら御配布」をするようにとなっています。
しかし、戦争が終わり、本土決戦という最悪の事態は免れました。一方で、指導者のその判断の遅れが、広島と長崎への原爆投下、ソ連の満州侵攻、そして長野市をはじめとする中小都市への空襲などと傷口を広げ、亡くならなくても良い人たちを亡くならせ、悲劇を広げたことは忘れてはいけないでしょう。南方戦線においても、数日違いで戦死や病死、餓死をした兵士が大勢いるのです。
そして、それ以上に、日本が戦場や植民地としたアジア各地に与えた傷跡のことも忘れてはならないことと思います。「不幸なる終息」は、別の立場からはまた違った表現となること、肝に銘じたいです。