ごみに見えるボロボロの紙ですが、大日本帝国陸軍騎兵第14連隊の献立表です。平時の兵営の食事から見えること。
収蔵資料は、軍隊生活を伝えるものもけっこうあります。軍隊の当事者となるのも庶民ですので、そのあたりの情報もそこそこ集めました。
表題写真と下写真は、満州事変当時、長野県上水内郡七二会村(現・長野市)から出征して千葉県津田沼の騎兵第14連隊に所属した兵士の関連書類に偶然残っていた献立表です。1932(昭和7)年の2月7日から20日まで1週間ごとの献立表が2枚、少し飛ばして3月20日から4月9日まで同様に1週間ごとの献立表3枚、そして献立表の書式が10日ごとに変更された最初の献立表1枚で、4月11日から20日までを記載。6枚合わせて45日分の兵営の食事が分かります。
騎兵第14連隊は同年6月に満州へ派遣されますので、その直前の兵営での食事です。品目のみの記載とはいえ、こうした普段使いの、当時でいえば毎日当たり前に繰り返された作業の資料は意外に残りませんので貴重です。順に追ってみましょう。
朝食は汁物とコメ麦飯2合、漬物と決まっていて、汁物だけを記載しています。2月7日は「朝・粕汁 昼・五目飯 夜・開花丼」となっています。 寒い時期、粕汁は体を温めるのに役立ったでしょう。ほかに「刺身汁」とあるのは、生魚が提供されることは通常の食事ではありえないので、肉類補給の意味で魚入りの汁の意味ではないかと思われます。
2月11日は「紀元節」、現代でいうところの建国記念日で、「朝・粕汁 昼・赤飯と口取り 夜・煮魚」とあり、お祝いの赤飯に小鯛や煮豆などの祝賀用のおかずがついたのでしょう。昼に赤丸をつけてあるので、特別な料理はここだけだったのでしょう。
17日の昼にはコメ麦飯の代わりにパンが提供された模様です。合わせて饂飩汁とあり、うどんとパンで主食をカバーしているようです。
また、夕食を見ると煮魚、親子丼、照り焼き、鯉の旨煮、焼き魚と、体をつくるために必要なたんぱく質をふんだんに取り入れているのが分かります。
季節は飛んで3月。2月にはおなじみだった粕汁に代わり、房総半島で採れたであろう海藻を使った「若目汁」が味噌汁と交互に出されています。季節のものを取り入れるのは健康面でも財政面でも良い効果があったでしょう。24日昼は「乾パン、飯、饂飩汁」とあり、期限切れの近い保存食の乾パンを消費する狙いがあったと思われます。
3月27日は「朝・わかめ汁 昼・親子丼 夜・フライ」とあります。フライもいろんな肉類を使っているので、これだけでは分かりませんが、一般的で特筆することがないとするなら、魚のフライであったでしょう。
4月1日は「誕生祝」とあり、夕食が「赤飯と豚豆煮」となっています。これは、当然一人ひとりの兵に作られたのではなく、4月生まれの兵全員を祝うという趣旨でしょう。現在の自衛隊にも、こうした風習は受け継がれています。
3日は特記事項がありませんが、夕食が赤飯と口取りとなっています。また、4日と8日の昼食「缶肉煮込み」は、やはり期限切れが近い保存食の缶詰の肉を活用しています。9日昼の「麺麭」(めんぽう)はパンのことで、例によってうどん汁と組み合わせるのが、この連隊の炊事の定番だったようです。
ここから書式が変わり、献立は一週間分を決める方式から10日分を決める方法になったようです。この関係で、10日の献立は不明に。
11日の夕食はライスカレーで、カレーは満州など寒いところで体を温める食事として奨励されました。15日もカレー南蛮が登場しています。
17日の「軍旗祭」は、連隊に軍旗が天皇から下賜された日やそれに近い日曜日を当て、兵営を一般の人に公開して、各中隊では飾り物や出し物を競ったりしました。昼は忙しいせいか澄まし汁と簡単にしてあり、夕食が赤飯と口取りの行事食となっています。
18日昼には「筍のあんかけ」が出ており、やはり季節のものを取り入れる工夫がなされています。
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朝はいくつかの種類の汁物を交互に食べ、夕食は魚か肉の料理が主。当時の日本人家庭の食事からすれば、かなり豊かなものでしょう。軍隊の維持にはいかに資金や物資が必要だったか、感じさせられるものがあります。
ただ、この献立内容は、まだ日本が日中戦争の泥沼に入り込んで疲弊する前の充実した時期のものだったことには、注意が必要です。