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初の国産量産戦車に乗った新聞記者の感想や、いかに。山岳県の長野では、最新兵器の試験も度々ありました。(軍事)

 1935(昭和10)年、長野県松本市の歩兵第50連隊に、千葉県から戦車隊が訪れました。歩兵との共同行動を訓練し、一般にもその様子を公開しています。下写真は、フランスから1925(大正14)年に13両を輸入し、日本最初の戦車隊を編成したルノーFT軽戦車と歩兵の連携写真です。遠景には、国産戦車の製造の遅れから1930(昭和5年)に10両輸入したルノーNC軽戦車も見えます。

第一次世界大戦末期に量産後、各国に売られたルノーFT軽戦車

 こちらは、手前がルノーNC、奥がルノーFT。それぞれ10両、13両しか輸入されておらず、しかも既に1932(昭和7)年の第一次上海事変などで消耗した後に、初期の日本軍の装備した戦車がこうして地方で活動している鮮明な写真は貴重ではないでしょうか。

ルノーNC(手前)。背景から、松本歩兵第50連隊の有明の演習場とみられる

 日本の戦車隊は、こうした輸入戦車の研究に始まり、輸入戦車でいくか、独自開発をするかで議論した末、最新の戦車を外国が売ってくれる保障はないということと、厳しい納期をクリアしてできた試作戦車が予想以上の性能を発揮することができたことから、国産の道を歩みます。下写真が、そうした方針を受けて製造された日本最初の量産戦車、八九式中戦車(初期型)です。写真では砲塔を通常とは逆側にしています。

 一連の写真は、松本歩兵第50連隊に在籍した兵士の記念アルバムから抜粋しました。年代についてはアルバムに1935(昭和10)7月5日の登山記載があったこと、別の資料本に1935年、千葉から戦車隊が来て実演した際の写真があったことと連隊長の名前や行事、軍装等から判断しました。まだ戦車どころか、車もそう多くない時代のことですから、写真から見ても、大変な人出(あるいは連隊の兵士か)だったことが分かります。
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 長野県の人たちが戦車に初めて接したのはいつごろか、調べてみると、1933(昭和8)年1月、千葉歩兵学校戦車隊が寒地訓練を名目に松本歩兵第50連隊を訪れていたことが分かりました。同年1月27日付の信濃毎日新聞が、戦車に乗った記者の手記を掲載していました。当時の戦車の状況が克明にわかることから、参考に著作権が切れていることもあり、転載します。(読みやすくなるよう、適宜漢字を現代字やかなに置き換え、句読点を補いました)
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 【松本電話】去る23日来、松本練兵場においてさまざまの寒地操作演習を続けている千葉歩兵学校戦車隊の戦車に記者は藤本憲兵分隊長のあっせんと戦車隊長渋谷中佐の好意により小里松本市長、中村会議所理事の両氏と共に25日夕刻、特に同乗方を許された。飛行機には幾度も乗ったが、怪物のようなタンクへ乗り込むのは79歳の小里老市長も記者も、まったくへその緒を切って初めてである。
 なんという名前か、飛行帽と鉄兜のあいのこみたいな戦車隊独特の帽子をかぶせられて表面の扉から中へもぐりこむ。入口は窮屈だが、中は案外広々としており、座席も立派なものである。
 大概の場合は操縦係1名と指揮者兼機関銃係1名、及び他の機関銃係と歩兵砲係の合計4名が乗り込むわけであるが、5人や6人は楽々と乗れる。戦場では全部の扉を閉めてしまって、ただ指揮者が外を見る小さな回転式小窓―銃弾も通らぬほどの極めて小さな縦の穴数条からできており、この穴を回転せしめることによって外部がよく観測できる仕掛けになっているもの―から外部を望見、タンクの進退射撃の距離その他一切を指揮することになっているのだという。
 さあ、いよいよ後部についたエンジンの猛烈な爆音とともに前進だ。広い練兵場をあちこち駆けずり回る。無限軌道の上を行くので平坦なところはチョットも揺れないが、凸凹や塹壕を越えるような時、あるいは急に方向を転換するような場合は相当揺れ方も激しい。
 外部の周囲は全部が厚さ一寸もあろう頑丈な鋼鉄づくめだ。うっかりするとこのかたい鋼鉄板へ頭を打ち付けてけがをすることがある。だから之を防ぐために帽子をかむって乗り込むのだ。中で操縦するのを見ておるに、自動車を動かすのと同じく楽々1人で自由に操っている。前進後退ゴーストップから左右への方向転換までなんの力もいらぬように本当に自由自在に操れる。この左右への方向転換が極めて自在にできるその装置に日本陸軍独特の秘密があるのだと、一緒に乗り込んだ藤本憲兵分隊長が教えてくれる。
 速度も目方10トン(2700貫)という巨大な怪物が走るところは実に早い。時速20キロ(5里)は楽々だ。それでいてガソリンは普通のトラックの約3倍と見たらよいであろうとのこと。
 最後に練兵場を大きく一周し、元の場所へ戻り降ろしてもらったが、前方上部に据え付けた掩蓋と共に回転自在の歩兵砲、操縦席の右手にある重機関銃、(砲塔)後部に後ろ向きにある重機関銃の銃砲3門が装置されてある以外、内部は思ったよりも複雑していないのは予想外であった。以下は加藤中佐の説明談「この戦車は欧州大戦当時、英国がはじめてつくりだし、ドイツ軍をさんざんに悩ましたものだ。今日では戦車の援助なしに歩兵戦は不可能とまで言われるに至っている。機関銃、小銃等の弾は完全に跳ね返してしまう。塹壕でも鉄条網でもどしどし越えて進むのだから、この威力は絶大だ。今では日本でも全部が国産品で作るようになったが、大型は1台10万円もかかるから楽ではない」(転載終了)
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 当時、アジアで戦車を国産していたのは日本だけで、当時としては各国の戦車と比べても遜色のない出来栄えで、中国軍との戦闘ではおおいに活躍します。
 一方で、世界の戦車の進歩のほうが早く、太平洋戦争に突入してからは、まともに行っては相手の戦車の装甲を打ち抜けないことや、基礎となる自動車工業が発達していないので量産が進まないなど、苦労の連続でした。フィリピンの戦いでは戦車の先端に爆薬を付けて体当たりで敵もろとも自爆する「特攻戦車」が登場するほどでした。
 終戦間際、本土決戦用に配備され始めた戦車が、ようやく互角に米軍の戦車と戦えるかと思われるようになりましたが数がそろわず、実際にどこまで活躍できたかは未知数でした。

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