見出し画像

松本市で戦時下を過ごした姉妹への聞き取り(上)ー疎開児童とビスケットの話

信州戦争資料センターの中の人は、1945(昭和20)年の1-3月に全国に配られた皇后から疎開児童への御賜のビスケットと関連があるビスケットを入手しました。これは長野県が受け入れ校の児童用に作った複製品ではないか、とみられるものですが、新聞で紹介され、記事を見た方の投書を縁に、当時、松本市の浅間温泉にいた投書の主の女性と妹にお会いして、戦時下の学校生活や恩賜のビスケットの話を伺うことができました。
 聞き取りは2018年5月12日で、読み返すともっと訪ねておけばとか基本的なことが分からないとかありますが、当時、精一杯のものですので、ご了承ください。2回に分けて紹介させていただきます。

 疎開児童やビスケットの思い出について
 姉・1941(昭和16)年春ー1945(昭和20)年3月まで、松本師範学校付属国民学校の3-6年に在籍
 妹・1941(昭和16)年春―1946(昭和21)年3月まで、同校の2-6年に在籍。いずれも長野市在住(聞き取り当時)

 【姉】・学校は松本50連隊と道を挟んで並んでいた。正門は連隊の反対にあったけれども、連隊から将校が通えるように、そちらにも門があった。校舎は現在とは逆に、北から第二高等女学校、松本師範学校、附属国民学校の順に建物が並んでいた。

当時の松本氏の地図。50連隊の西に付属校がある

 浅間温泉には将校もいて、毎日マントに長靴、乗馬、従兵がついていてさっそうとしていて、あこがれだった。連隊が近いせいもあり、連隊に入隊した父の出身地の人は、必ず訪ねてきて、そして泊めてやっていた。だいぶ送り出しました。特攻隊の人もいました。出ていくときは、夜ですね。夜に軍靴の音がするのですよ。ああ、いくのだなって。はっきりとしたことはわからなかったが、(特攻隊員は)土塀のある東石川、西石川にいたと思います。
           ◇
 【姉】集団疎開の児童が来たのは1944(昭和19)年ですね。学校でお迎えをしました。もともと、付属国民学校は各学年とも30人ぐらいずつの男組と女組の2組だけしかない小規模な学校でしたから、(疎開児童も)4-6年の各学年1学級ぐらいずつしか来ていませんでした。近くのもっと大きな小学校はたくさん受け入れていました。まじりあうのではなく、別教室でした。屋外で勉強しているのを見たこともあります。 疎開児に皇后からビスケットが配られたことは、疎開児童を宿泊させていた旅館の友人から聞きました。

 【妹】・わたしも別の旅館の、わたしの友だちから聞きました。

 【姉】・個人疎開の人に知られちゃいけないから内緒だよ、と。この時、友人がそのビスケットだよって見せてくれました。(信州戦争資料センター所蔵の現物を見ていただく)いや、形は卵型じゃなくて、丸かったです。大きさはこれぐらいでした。担任の先生に「疎開児童はいいな」と言ったら、強く「しいっ」と言いながら手を顔の前で振って「とにかく、お駄賃なのだ。お前たちは親と暮らしているだろう」と(投書には「戦争に勝つために親元を離れて頑張っていることへのご褒美だから」と諭され、納得したように思います、とある)。特にお菓子の引き渡しの式とか、やりませんでした。長野県が複製品を用意してくれたこと、食べたことは記憶にありません。

 【妹】・わたしも覚えていません。その代り、皇后の「次の世を」のお歌(ビスケット配布に先立ち、疎開学童のために作られた歌)はよく歌って覚えました。音楽室が広くて、3年以上のみんなが集まって。いい歌でしたよ。教科書にない歌は、そこで覚えました。サイパン玉砕の歌とか。音楽通して、軍国の子どもになったよね。教科書は修身でしたけど。

恩賜のビスケットに手を合わせる少女の載った写真集報1945年1月31日号
右上に御歌がある

 【姉】・疎開の人たちと、音楽会は一緒にやった。疎開の人たちは、ピアノをどんどん弾く。トルコ行進曲とかソナチネ、ショパンとか。それが先生よりもうまい。カルチャーショックでした。着ているものもどこかハイカラで。そんな後「生意気だ」といじめもあったようです。また、ストーブのところに弁当を立てかけてあり、外に体操とか行って帰ってくると、弁当を食べられていることがありました。弁当といってもサツマイモとか大豆ごはんとか、わたしたちも空腹だったですよ。なんとなく疎開の奴らが犯人だという感じでしたね。 1945(昭和20)年3月7-8日ごろ、卒業して受検する6年生を見送りました。それで東京大空襲。無事だったらよかったのですが。
           ◇
 疎開児童のビスケット、やはり、配られたものは丸かったという証言が得られました。一方、代わりの御菓子をもらった記憶がないとのことは意外でした。疎開児童にとっては強い印象を残したビスケットですが、長野県の複製品の実情に、また新たな謎が出てきました。
 松本市の公文書館には、市内の開智国民学校あてに、代用品のお菓子を受け取りに来るようにとの通達が残っているので、付属国民学校が仲間外れになったとも思えませんが、市立でない分、手違いがあった可能性はあるでしょう。また、皇后のビスケットですら材料調達には苦心していたので、長野県の文書にも鋭意製作中の雰囲気が感じられ、とうとう全部には回らなかった可能性もあります。
 そして、証言から、集団疎開ではない縁故疎開の児童には配られなかった可能性が出てきました。なかなか、なぞは深まります。引き続き、情報を収集していきたいと思っています。
(下)に続く


ここまで記事を読んでいただき、感謝します。責任を持って、正しい情報の提供を続けていきます。あなた様からサポートをしていただけますと、さらにこの発信を充実し、出版なども継続できます。よろしくお願いいたします。